酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

上橋菜穂子「鹿の王」続編「水底の橋」

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読了。

で。

 

…うむ。

とりあえず、本編ほどのものすごさではないけどさすがに期待は裏切られなかった。流行りの医療ドラマのようなんだけど、なんというか、上質な韓国ドラマのような人間ドラマの織り成すこみいった精緻な物語構成上の感情を揺さぶるおもしろさと、知の快楽、真摯に現代の問題に向かい合おうとする社会への思想的アンガージュマン、知的アプローチへの行動を促すその快楽、双方を併せ持つ統合エンタテイメントなんである。(新刊帯の推薦コメント、メンバーがすごい。仲間作家とは別ジャンルの、萩尾望都養老孟司、そしてこのブログでも西田哲学の本のところで触れた生物学者福岡伸一この日の記事ね。)も「人は何故病むのか。そしていのちとは何か。人類最大の謎が解き明かされる。」とかなんとかいうものすごいコメントを寄せている。)

「なによりも大切にせねばならぬ人の命。
その命を守る治療ができぬよう、
政治という手が私を縛るのであれば、
私は政治と戦わねばなりません。」

医療行為によって人を助けたい、命を、魂を救いたい、その信念をもって心身の医療に当たる、しかしその信条の違いからくる団体同士の敵対。国家権力の絡んだその勢力闘争と純粋な個人の思いや理論が錯綜して物語を動かしてゆく。それぞれの正義と正義、その正義が互いに己の思想の正義を掲げながら議論を戦わせるシーンの知の快楽は、浅薄な物語の表層をなぞるありふれた凡百のTVドラマ的な正邪二者択一的なるものにとどまらず、あたかもカミュの「異邦人」を読んだときの神父やムルソーの議論を読んだときの知的な刺激にも似た深いところに繋がってゆく、次々と深められてゆく興奮を呼び起こす。そしてそれはイマココ、この現代社会への問題に対して知性の目を開くその意識に直結する。

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ざっくり色分けすると、主人公ホッサルの属するオタワルの医療は近代西洋医学の物質としての身体を扱うクリアな科学としての医学概念に重なり、それに一見敵対して見える、そしてホッサルにとってまどろっこしい無駄や迷妄や不合理に満ちているように見えていた古来の心身や個を超えた世界とのつながりも含めた哲学的な医学に繋がるのが、宗教的概念に深く結びついた、自然への畏敬に満ちたままの「清心教医術」である。いわゆる東洋的漢方医療の方に近い哲学、世界観、思想と一体化したかたちでの医学という考え方。これの対決が現場の人間ドラマと政治的問題や国家的陰謀と絡みついて物語は大層ダイナミックでおもしろい人間ドラマ、推理サスペンスドラマを展開してゆくんである。

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いや~まずね、このひとの文章の魅力なんだけど、実に相変わらず細部にわたって事物の描写が濃やかで風景が艶やかに官能を刺激するんである。例えば何しろ丁寧に描かれる食べ物がいちいちおいしそうである。食べたくなる、登場人物とともにその感覚を共有したくなる丁寧に味わいたくなるその心のこもった世界に対する感謝と存在の喜び(そして苦しみ)の実感、それへの愛情に満ちたまなざし。そうして、その描写というリアルな体感に裏付けられた確かな基礎構造から繰り広げられて構築されてゆく観念的世界、骨太な物語、緻密且つ壮大で思想性と躍動感すべてに富んだ物語構造には舌を巻く。実に今までひとつもハズレがないと言っても過言ではない作品群、すべてシリーズの大河小説になっても不思議のない精緻な世界観、ものすごい壮大な物語の面白さなんである。

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ここで考えたことを書きとめておきたい、という思いは熱いうちにやらねばならない。が、いかんせん図書館の本、締め切り前に慌てて読んで返してしまったので、思いはそのまま冷えてしまう。

なんでもそうだけど、書き留めなければなかったことになってしまうっていう感じは確かにあるんだなあ。永遠に失われてしまうということもある。日記を書く、モノを書く、という行為にその日を生きた証、確かに存在した証という意味がある、という命題はひとつの真理ではある。ひとつの。

(それはもちろん間違いでもあるのだけど)
(有と無の関係性については哲学も物理学も同じように悩んでいるのではないかねいとなんとなく思っている。どちらもとても透き通った考え方をする。シンプルを基本に純粋に考えるのだ。)

でも考えた、というこのことだけはとっかかりを残しておきたい。という意味での、だからこれはメモでなんであるよ。

 

…でね。

私はこのひとの作品は本当にすごいと思っている。デビュー当時から新刊出るたびに飛びついて読んでいた既に追っかけの類のファンである。

だが読むたびに。
そう、読了、パタンと本を閉じて顔を上げる。そして感動のタメイキをついて現実に戻ってこられない夢うつつの状態の己の中で、しかしいつも高らかに心のどこかから声が聞こえるのだ。「これは文学ではない。」

何故だろう。

そしてでは私にとってその「文学」とは何なのか?
考えていたんだけど、さっきちょっと千早茜を読んでいてとっかかりを思いついた。

どうして漱石や賢治や春樹や川上弘美を私は文学だと思うのか。(すいませんね日本文学専攻なもんでとりあえず視野が日本文学なんですが。)(もちろんあらゆる文芸には、どんなものにだって「文学性」は含まれているんだけど、それはまあ前提として。)(これはそしてもちろん個人としての嗜好、文学に対する「思い」という意味であり、「哲学とは何か」「世界とは何か」「真理とは何か」という命題と同様、そのあいまいな対象の永遠の謎に対する思索に留まるものであって、決して定義される汎用性に関して主張されるものではない。敢えて言えばそれはその真理をなぞる円環運動の中で中空の虚空としての虚無こそが真理という概念であるとして意義を発見し主張しようとするものである。考え続けることそのものに意味があるという主張である。)

キイ・ワードは「わからなさ」なのだ。
クリアにオチをつけられない、「わからなさ」の森を読者の心に棘のように刺したままでおく力を持つ作品。

…ということで、これはまあほとんどライフワークなので今日はここまでで力尽きておく。

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とりあえずね、この希望の光に満ちた終わり方は読み終わって暖かい気持ちになる。読後感がいい。エンタテイメント映画や物語は実にハッピーエンドに限るのだ。うむ。世界よおめでたい花畑であれ。