酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

吉田篤弘「月とコーヒー」をちまちまと読んでいるんだが。

吉田篤弘、もちろん悪くないんだけど、なんだろうな。
 
いまぺろっと比べるの無意味かもしれないけど、引き換えくらべて考えてしまうのだ。短編の情趣のタイプ分けというか違いというか個性というか。
 
つまり、川上弘美の卓越。彼女の作品は、言葉は、短編でもナンセンスでも、ううむ、なんというかいきなりどかんと違うのだ、ツボなのだ。川上弘美。ものすごい切ないのだ。笑いすらも切ない。淡々とした世界の不条理もナンセンスも残酷さも冷淡さも、すべてがその切ない情感に包み込まれている。何だろうあれは、と考えてしまう。
 
もちろん短編は切なさと情趣に、その味わいに優れたものが一般に得てして多いものであるような気もするんだけど、同じように切ないだの情趣だの言っても、なんだか全然ちがう、というところで、それはまあ個性と言ってしまえばそれまでなんだけど、個性を語るときにそれがそれで終わるものではなく、その先に「個性とは何か」に踏み込むべきものがある、理論化、構造化されうるものであると考えることができる、ということかそういうことで。
 
で、思ったのだ。
 
個を包み込む全体を、個が包んでいる眩暈の構造がそこには仕込まれているのではないか。そしてそれが、女性作家と男性作家の違いなのではないか、と。個と全体の超越のあらかじめ確立された、そのような世界の感覚、肌触り。アプリオリな超克の構造。
 
…これは今のところただの直観なんだけど。個と社会の関係性の、その構造が男性作家に多いものである断片的なディレッタンティズムや社会性、ダンディズムや倫理の美学とはまったく異なる、けれども確固たる存在感をもったある種の「構造」に必ず根差しているというところから、この切なさはやってくる。個性やアイデンティティの「枠組みの物語」をずぶずぶと越えてゆくそのあわいのところに。(これは作品からの検証は逐一可能である要素であると私は確信している。…この記事はだから備忘録としてのメモ。)「枠組みとしての物語」はそれはそれとして非常に優れて素晴らしく心に響く作品も多い、ということはもちろんであるよ。前提として。ただ、それは構造的に、すなわち質的に異なるものなのだ。)(月とコーヒー、読了したら実はかなりよかったんである。好きなものがいくつも。これはこれとして語りたくなるような。)
 
その構造とは男性作家(便宜的区分、「男性性」の要素の強い作家)の構築された堅牢性をもつ個性の存在を前提としたものとは質的に異なる柔らかなフレキシビリティを孕んだものとして在る。不思議なことに、女性作家の中でも稀有なこのタイプのラディカルな女性性(ラディカル・フェミニズムの系譜と言えるのではないかと思う。)を打ち出す作家は、本当に女性の中にしか見受けられない。逆に主流としての社会的枠組みの中での「人生の物語」(私がここでいう男性性の強い作家)を見事に描き出すリーガルフェミニズムの系譜に連なる優れた女性作家は数多く存在する。
 
川上弘美のそれは、ただそれはひたすらに瀰漫している。変幻自在に形を変え現前する、共通のマトリクスからやってくるもの。支配し閉じ込める性質を伴うその顕現する不器用な堅牢性構築物とは異なる、柔らかな法則、場面によって形を変える、他のいかなるものにもねじまげられることのないもの、大いなる法則に根差した、その野生の思考。
 
そこには怒りや悲憤慷慨、正義や倫理や人情の物語はない。あるのは、淡々とした「非人情(漱石)」の物語。それがあらゆる下位の現象を大きく包み込んでいる。酷く怖くてひんやりと残酷で、それなのに温かく優しい、生命のエロス、マトリックス、母なるものの深みと虚無を孕んだもの。
 
寒い。寝る。
ひとりの安らかな夜が嬉しい。
(今日は久しぶりに美しい夕暮れを見たのだ。)

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