酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

恋と時空間(恋愛小説のススメ)

桜咲いてきて、嬉しいです。トリも花が好きなんスな。食っとりました。
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で、こないだの「100分de名著」のオルテガ「大衆の反逆」。

ここでワシはこのやたらと男前でかっこいい指南役の先生の語り口にシビれてしまった。
で、それが刺激になってあれこれ考えた。「保守という思想」のあれこれ。あんまり考えたことなかったことがおもしろいということは、そこからどんどんあれこれ考えたくなるからおもしろいというのだ。引っかかったことわからないことずれていくところ含めて、自分のスタイルで。それは、とりもなおさず「保守とは何か?」を問い直すところから来ているものだから。

で、そのひとつを展開して書いてみる。番組メインの「保守という思想」というテーマから離れてしまっているようだけど、実は関係してきていること。キイは「徹底した自己懐疑」である。

まあねえ、結局私の考えというのはなんだか最後には賢治の方に流れてしまうのだけど。
だけどそりゃ、指南役の先生の読みの切り口というのがここでやっぱりオルテガの考える「私(個)」を仏教と結びつけて語っているものなのだから、仏教的な個と世界の存在把握、となると賢治に繋がってしまうのも蓋し当然ではあるのだ。

 ***  ***

本当は自分なんてかたちはない。
自分の考えなんてただ場所に呑まれている「場所の思考」に過ぎないということをいつも思う。安定した枠組みをもった個、アイデンティティなんてものは近代西欧的なるシステムがつくりあげた幻想なんである。

思考とは、その属した場にあって初めて生命を持つ、場(外界)に繋がることによって全体となる構造を持ったものである。時空の一部、パーツとしての思考。思考とはただ内的なものなのでなく同時に外的なものでもある。つまりあらかじめそれはその場の風景によって規定されている。風景に属している。読書によるあらゆる想像力の翼がその読書の現場から規定されているように。
(例えば。「100分de名著」で「大衆の反逆」から引用されていたオルテガの言葉「私は、私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救えない」。この「存在構造」把握のスタイルは、そのままこの「思考構造」把握のスタイルとアナロジーであると私は思ったのだ。ドンピシャリで。)(ついでにもう一つ。この後半部分は特に、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(農民芸術概論綱要・序論)という賢治の求道的倫理観ともまたぴたりと一致している。両者は共通した自己と世界の関係性のありかたのひとつの観念のモデルを描いているのである。)

でも私がここでいいたいことはこの社会的なところに行き着く倫理観のところではない。そう、とりあえずは行き着かない。

絶望も幸福も自分の内部にではなく外部の特定の場所に属したものである。ともいえるのだ、ということが言いたいのである、要するに。とりあえずは。

それは例えば時代の空気に規定された文学という命題として、まあ当たり前ではある。それは逃れようもなく自分を構成し且つ自分がその一部を構成している世界であるから。(オルテガや賢治が至った、倫理や求道、社会的存在としての在り方のスタイル、選び方に関しての思想はその構造把握のさらに先の話である。)

だから、ひとつ図式を考えてみよう。
「独りの部屋の中で絶望してしまっている。」
それは閉ざされた場によって思考が空転し自家中毒を起こしてしまっているのだ。ちょっと外に出てみたらいい。街に出てみたらいい。できるだけ遠い方が確実だ。(その距離は物理的な意味と重なってはいるが厳密にいえば純粋な質的距離である。それは境界を越えている。世界として別物、次元が違う。)

極端にいえば、故郷に戻ってみればいい。由縁の土地、思い出の土地、或いは見知らぬ夢に属する街(それは心象の故郷だ)。実際の故郷である必要はない。心の中にある故郷のイデアに繋がる場所。

*空転する空虚な己の思考スタイルを自覚しろ、その限定された狭小さを自覚しろ。壁を取り払え*

風景が変わるとその「外界」が自分の中に即座に映し出される。そして映し出された外部の起爆剤によって硬化して澱んだ自我の壁が内側から破れ、別種の空気が、その光と風が通り抜ける。(それは直ちに起こることもあるし、なかなか起こらないように見えることもある。自我の牢獄の細胞壁がカチカチにかたまって、その結ぼれがあまりにも頑なにこじれてしまっていたりするとね、ほどけにくくなってて。)内側と外側が裏返る。そこに属する者としての主体が今までの主体とは別のものとして再生した主導者として成立するのだ。世界から世界への質的移行。それは別に偽りから真実へという意味ではさらさらなく、ただ限りない無限であるものを感ずることのできる場としての世界の狭間を通り抜けただけのことだ。今までの自分の殻を外側から見る自分が息を吹き返す。(ここで私は世界の在り方としてインドラの網の構造モデルを想起している。)

壁を取り払え。自在で柔らかな思考スタイルを得るためには破壊されなければならない防壁或いは牢獄がある。自我を守る防壁であり自己を閉じ込める牢獄。「おまへの武器やあらゆるものは/おまへにくらくおそろしく/まことはたのしくあかるいのだ」(宮沢賢治「青森挽歌」…「武器」とは防壁だ。)

それぞれの場所の思考はすべて自立ししかしそれぞれが連帯しており、支配し或いはされる関係にはない。人はその「ここではないどこか」感覚を付着させた場所で、(それは移動によって発生する「どこでもない場所」、矛盾であるからこそ常に逃れ続ける否定され続ける止揚され続けるロマンティックイロニイ(オルテガの考える保守という思想のキモ「永遠の微調整」(あるいは徹底した懐疑精神による永遠の現状否定と止揚という求道)」)というダイナミクスの層を共振させている時空に繋がっている。奪われていた自由な思考を取り戻し日常に倦んだ閉ざされた論理から解放され、世界はさまざまでいいのだということを感じとる力を取り戻す。風景の数だけ世界がある。無限(「まこと」)への解放。

それぞれがそれぞれの世界に穿たれた穴としての役割を持った関係にある。補完し合う、矛盾し合う。それぞれの意味世界のその論理のアポリアからの抜け道。インドラの網である。無限に響き合う、明滅する有機交流電燈たちの網。

感覚的な言葉でいえば、それは空転する論理構造に内実として機能するべく生命が吹き込まれる、といったものである。酸素と他者が不足した呼吸困難からの回復。自家中毒患者への血清注入。(未知と未来、可能性という、エナジイに満ちた「不可知」の要素の挿入、それによる希望という生命力の発生現象といってもよい。酸欠だった血液に新鮮な酸素が注ぎ込まれ身体中を駆け巡る。)

形骸化した世界が新たなDNAを取り入れることによって破壊されその内側から新しく動的な生命を得る。よく神話や物語で「蝕」や「最終戦争」「降臨」などという決定的にチートなラスボス的なるものとして示されるある種の祝祭の構造である。そしてそれは自我の自意識の牢獄からの救済という意味とまったく同構造、同義である。大袈裟で陳腐な中二病の言語感覚の世界観と矮小な日常の中の自分はその論理構造のアナロジーによってまったく同じものとなる。

認識主体の問題だ。
自我の枠組みの破壊による虚無への恐怖とその牢獄からの解放の両義。それは矛盾ではなく止揚されることができる、という構造。(まったくおしなべての宗教や儀式、神話…物語というのはことごとくこのために存在しているといってよいのではないか。実に人類の知恵であるとこよと思うんだな。しみじみ。)

賢治の「春と修羅」の中の一篇「林と思想」では、この内ー外、思考ー時空、すなわち己と世界の関係性における一体性についての構造が、次のように表現されている。この「かんがへ」という「思想」を包み込むマトリクスのうつくしさがたとえようもなく優しい。

すべてを超えた「外部」が、美しいよきもの、救済である、と設定することは信仰であり智恵である。それは極めて仏教的世界観に近似したものではあるが。


そら ね ごらん
むかふに霧にぬれてゐる
蕈のかたちのちいさな林があるだらう
あすこのとこへ
わたしのかんがへが
ずゐぶんはやく流れて行つて
みんな
溶け込んでゐるのだよ
 こゝいらはふきの花でいつぱいだ


 *** ***


こうして「場所」と「思想」が溶けあう構造の概念を導入すると、例えば恋愛という心身をトータルに捉える自他の関係性におけるいみじい概念も全く新しくおもしろい切り口をもつ。

命題1

恋とはひとつの信仰である。他者への信仰。「こいびとにいだかれているときだけ私はそのように考えることができるようになる。彼(彼女)という風景の中でだけ開かれる思想がある。彼(彼女)は私であった。私は彼(彼女)に含まれるものであった。」

そうして前述した時空と思考の論理構造にこの恋愛の構造を重ねたイメージを持った後には、すべての分野において、そういう擬人化はアリということになってくる。論理は逆照射され、すべての論理は恋の論理のイメージを孕みはじめることができる。フレキシブルな思考、自在に変化し跋扈する。(世界は豊かで楽しくなる。)(それはつまり、世界に、存在に恋慕するということになるからだ。)(ホラ、よく恋をすると世界が輝いて見えてくるっていうだろう、アレだ。)

そう、ここで恋とは何の比喩でも有り得る。(愛はちょっと違うと思う。《と定義しておきたい。》その先だ。それをつつみこむもの。外部、マトリクスを指向する。)(…例えばちょっと恋愛からはずれるけど、春樹は関係性によって生まれる時空、その世界におこる特別な現象を「ケミストリイ」と称していた。1+1は2ではなく1+2は3にはならない。)(特別の、唯一の、時間と空間とそのときそれを共に共有した他者たちとの「ケミストリイ」による全体性。それは多分ゲシュタルト心理学の「要素+α」としての全体性という構造だ。)そしてその世界はそれなりにそのひとつひとつが無限の眷属であるものなのだ。いわゆるところのミクロコスモス=マクロコスモス構造。

「私は彼に問う。彼は私の心の中で答え、私は彼に笑いかける。愛している、と強く思う。胸が痛むほどの幸福感。」

たくさんのカレを愛したい。
その、「たくさんの世界のなかのそれぞれから抽象される唯一のカレ」という拠り所さえ心の中に存在させることができれば、自分はどのいやなやつ(閉鎖的論理県境)のもとにいても生きていける。胸を温めてくれるところがあると信じていられれば。

 *** *** 

いや、世界を把握するための一つの自己救済方法としてね、恋愛小説をね、書いてみたいなってちょっと思ったんだよ。ただ。ウン。そういうのって、アリかと。そう言ってしまうとすべての文学は恋愛文学になってしまうといえばそうなんだけどさ。