酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

夜明け記録 、宮沢賢治「農民芸術概論綱要」

二月如月朔日、新しい月、昨夜の久しぶりの雨に洗われた新しい朝である。

朝5時半頃の澄んだ紺色の中金色に輝いていたところから6時過ぎ次第に淡く消えてゆくところまで観測、見事な地球照を抱いた月星マーク。月に寄り添ったのは金星、少し遠くにみえるのが木星。この地球照がどうも好きだ。

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これはマンション8階のベランダから撮影したもの。三脚立ててじっくり上手に撮影したらきれいに撮れるんだろうけどなあ。朝のあれこれしながら隙間にベランダからささっとパシャ。さぶいのでパシャっと撮ってすぐさま退散、では思い通りには写せない。

見た通りの、心に響いて映し出されたその風景をそのまんまさくさく記録できるミラクルなカメラとスキルが欲しいものだ。

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次第に明けてゆく。月は淡く溶け地球照も消えてゆく。
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そうして東の雲が見事な黄金に縁どられて二月の初日の出。

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おはよう、お日さま。
わくわくするような極彩色のハレーションからご本尊の登場まで、刻々とその輝きを変化させてゆく、毎朝惜しげもなく淡々と展開される豪奢なショー、ドラマではない壮大なドラマ、自然の時間芸術。

これって賢治いわくの「すべて天上技師NATURE氏のごく斬新な設計だ」とかなんとかいうやつだな、なんて思う。「すべて天上技師NATURE氏のごく斬新な演出だ」

…そしてハタと思いついた。この発想は、すごくおもしろいところに繋がっているのだと。賢治独特のユーモア、というだけではなく。

自然或いは神の擬人という技法、修辞の意味である。これは懸案だったのだ。いつもいつも擬人という発想が私は不思議であった。古今東西あらゆる物語や神話で、原型としてあるもの。何故ひとは人でないものを擬人化するのだろう。擬人化にはどんな意味があるのだろう?擬人化しないと理解できない?!

自然を言語化するための人間の翻訳の技法としての擬人法。それはキリスト教での「人間が神になぞらえて拵えられた」という発想とは真逆のものである。

 *** ***

…で、とりあえずスコーンと繋がって見えた、思いついたってのはつまりだな、ここでそれは、彼が「農民芸術概論綱要」で目指した「四次元芸術」に関係しているということである。こういうのね。

声に曲調節奏あれば声楽をなし 音が然れば器楽をなす
語まことの表現あれば散文をなし 節奏あれば詩歌となる
行動まことの表情あれば演劇をなし 節奏あれば舞踊となる

ここでポイントは「まこと」であるというとこなんだけど。

要するに、ドラマや芸術、音楽絵画舞踊演劇という芸術行為が擬人とまったく同じメディアとしての役割を担った「まこと」のための翻訳技法であり、(神=自然=真理=カオス=マトリクス)というイデア「まこと」のミメーシスとしての芸術の技法の論理として定義されていることとの関連。これが、前述した擬人法の「翻訳」とメディアというフィールドを請け負っているという構造において同構造、同義である、というその構造のことなんである。

(因みにここで祝祭空間ー擬人法というようなイメージが結びついてくる。これは楽しい。それは「祝祭空間ー擬人法ー読書の現場」という神話の現前の論理イメージのわくわくだ。それは、とどのつまりは言語そのものが祝祭的な技能を担ったものである、という結論に行き着くものである。存在の意味への技法。)

そして同じく農民芸術概論綱要での「近代科学の実証と求道者たちの実験」という近代科学と求道という分野の並列された表現。銀河鉄道の夜ブルカニロ博士編」での「信仰も化学と同じやうになる。」というこれと同じ思想を示す表現。この目指すところの方法論としての「芸術、擬人法」である、と。

つまり「天上技師」という自然の擬人化は、近代科学や芸術の人間活動のイメージを自然に施すことによって自然の言語化という翻訳の役割を果たし、あたかも自然の超越美のフィールドにおいて誰かがどっこいしょーっとあれこれ考えて働いて美しい建築物や庭園、世界を作り出している設計図や労働の現場が存在するようなイメージを生み出す。そしてその論理構造が逆流してその人間の行為という「現実」が超越的な絶対の真善美に繋がりその力を「こちら側」に写し取るためのミメーシスでありうるものであるという可能性を開いている。

近代科学の合理客観をもって、求道-真理ー自然という本来超越したフィールドにあるものをこちら側に取り込むトリック或いは技術としてこのテクストに仕込まれているものとしてこれはとらえられるものなのではないか。

賢治が自然と人間界の、芸術という項目を介しての融合、その構造の論理的な一致の可能をどこかで信じていたところからくるんじゃないかな、という論理展開或いは遡行がここには見られるのだ。

賢治テクストにおいて分子や原子、でんしんばしらや鉄道という科学技術の描く世界像が、自然のうつくしさや神秘の物語とまったく同列に扱われて物語られていることとこれは関連している。人工的なるものはここで自然と対立しない。それは自然を搾取しない。

賢治が科学と信仰を共に客観的分析可能な同レヴェルで捉えようという絶対善としての科学技術の未来をそのテクニカルな方法論と真善美の宗教的価値観の融合したところを信じていたことと同根にあるものを表現するのがこのテクストの示す世界観なのである。本来異なる質であるはずのものを並列の基盤におく芸術ー修辞(擬人)というトリックを施すことによって。あちら側の神秘を翻訳し、いわば多少の冒涜によって親しみやすく、我々に理解できる形に翻訳して。

…対立するものではなく融合してゆくべきものとしてとらえるために。

(ところで彼の日の出の描写でいつも思い出すのは「ちゃんと今朝あのひしげて融けた金の液体が/青い夢の北上山地からのぼったのをわたくしは見た」ってやつだな。すごくよくわかる、「ひしげて融けた金の液体」。今朝のは空が澄んでるからちょっとちがう。少し雲があるときの方がその雰囲気になる。これは先月撮ったやつ。こっちの感じがソレに近い。)

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…なんかねえ、存在という奇跡を思う。飛行機からのこの夜明けには感動したんだよなあ。もいっかいあれを拝みたい。(最初の日の出前の画像にはカラスのシルエットも入っているよ。わかるかな。)

しかし本当に冬至の頃に比べたら日の出の位置が随分北に移動している。

立春も近い。街も桜もちや草もちや苺や抹茶の春色ケーキ、カルディには桜煎餅や桜飴、桜きな粉餅の桜スペシャル。(ヴァレンタインチョコレートも楽しい。眺めてると頭に血が上って全種類買ってためしてみたくなる。)とにかくみんなひたすら春が恋しいのだ。

で、日の出のこの一瞬、西の方の空、彼方の山々は夢のようなももいろに染まるのだ。山と、街とが。

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山のあなたの空遠く、幸い住むと…、と呟きたくなるんである。なんとなく。

 

***オマケ***

今朝6時前、月齢27.1、細い細いお月さまと金星と木星。-2℃。世の中チルドルーム。昨日より少し金星がお月さまから離れて少しお月さまはお痩せになられた。

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日の出はこれくらい、やっぱり昨日より少しだけ北にずれている。

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さらにオマケ。
立春の日の日の出。やっぱり少しずつ北に移動している。6時45分頃。

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