酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

11月補遺・吉田篤弘備忘録

11月週末のあの日の補遺である。
メモに残っていたのでメモのままとりあえず。今年もそろそろ終わっちゃうしね、心残りがないようにアップしといちゃおう。

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週末は吉田篤弘「雲と鉛筆」と、ふと図書館で手に取ってしまったのでついつい再読してしまった安房直子「山のタンタラばあさん」に救われた。(安房直子さんは私のバイブル、私の切り札なのだ。おいそれと使ってしまってはいけないような気がしている。手垢をつけてはいけない気がしている。)(賢治は構わないのだ。あれはひたすら手垢をつけまくってごりごりにいじくりまわしてこそ。)

吉田篤弘ディレッタンティズムは、基本的におもしろい。

このおもしろさは、だけどそこに完全に同意できないところにあるのかもしれない、などとも思う。

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う~ん、同意、いいなあ、いいなあ、この「モノ」への思い、「物(モノ)」から「魂(モノ)」への振幅から「モノガタリ」をうみだしてゆくような、言語との戯れから意味を見出してゆくような世界との戯れとしての感覚を持つ言語センス、などと思いながら読み進めてたら、あれれ、と不意にかわされるところがある。言葉の表層の微妙さにこだわるからこそズレてくるところがある。おそらく同じことを言いたいんだろう、と思うから、この言語センスのズレから見えてくるテーマが「おもしろい」ところであったりするのだ。「私ならこれをこう言うぞ」「こう見るぞ」などというムラムラとした思いが湧いてくる。(なんだかんだ言って世界観、みたいなのが好きなんだけどね。)(彼の描く「街」の風景だ。ここに住みたい、と思うような。)

例えば。
「見つける。」と「気づく。」は違うのだと作中登場人物「人生」は主張する。(「人生」は眼鏡屋の息子のニックネームだ。いつも「人生とは」と珈琲屋で一説ぶち上げたがるから。)

「AがいいのかBが正しいのか答えを見つける」がテーマだ。

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「だから、答えは出ない。AでもありBでもある。僕はね、答えがふたつあるものにこそ本当のことが宿っていると信じている。だから、これはこの先、何度も考える価値がある。ただし、答えはどこまでも出ない。答えなんて見つけない方がいいんだよ。」

「でも、どうしてか、みんな見つけたがる。どうしてだろう?」(p67)
「そこに『見る』という言葉が使われている以上、その対象物は自分に含まれていないと思う。『見つけた』と口にした瞬間、見つけたものは自分の外にあると確定される。つながったんじゃない。むしろ、つながっていないことがわかった寂しい瞬間なんだよ(中略)人生には、『見つける』ではなく、もっといい言葉がある。『気づく』という言葉だ。そいつはたいてい自分の内側からピンッと音をたててあらわれる。」「『見つけた』ものは自分の外にしかないが、『気づいた』ものの多くは自分の中にある。」(p68)

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多分、ここで私の感じたことと「人生」が感じたことは同じことだ。だが、私はそこにただ「構造」を発見する。わたしにとって世界を感ずることとは世界の構造を感ずることなのだ。そしてここで論点は、自分の外側と内側、主体と世界の関係性、アイデンティティの枠組みの捉え方の違いのところにある。

この文章を読んで私が発見する私の考えは、自分の外側に「見つける」こととそれが自分の外側でなく内側にあると「気づく」ことの区別とそれこそが二者択一的な価値観のもとにあるものであるとツッコむところ、差異の発見による一方の「優位性」ではなく寧ろ「同一性」という可能性のところにある。(作者吉田は、ここに相反する性質としての内外の「区別」をすがすがしさとともに発見している。だがそれはそれ自体がその二項対立の平面の地平にあるということの露見であるともいえる。論理の上では。…多分感じている構造の喜びとしては既に同一なのだが。)このときここで内側と外側の区別は消失する。閉ざされた自我が外側に裏返る。(解放される。)そういう可能性だ。外側と内側の区別が消失する世界と自分とのかかわり方の「発見」(気づき)。
この視点を導入すれば、「人生」が感じた違和感であるところの「世界と自分の分断」が、逆説的に「世界と自分との合一(主体と客体の合一)」という矛盾からの止揚にたどり着くためのきっかけとなる。アイデンティティの解体→再構築、孤独と閉塞の枠どられたエゴから解放された自我へ、二項対立→止揚の論理構造、個と世界が同一である芸術の理想、どちらも否定されず飲み込まれもせず、同時に自在に流動し変容する意味存在でありうる場所、多様と唯一が同じであり、イデアであるところの、そんな柔らかな自我への跳躍の発見である。「見つける」が能動的、支配的、意志的なものであり「気づく」が自然発生的で向こう側からやってくる自発、その「啓示」である性格をもつこともここでは大いに関係があるのだが。

(テクストは、文学とは、常に作者を乗り越えたところへ跳躍するための可能性そのものだ。)

その発見は、あたかも宗教的な悟りのように、いくどでも失われ、いくどでも再発見されるタイプの、アボリジニたちの言うドリーム・タイム、西田幾多郎の主張する無時間の永遠。発見した瞬間だけ存在する、(主体は世界に含まれるものであり、世界はまた主体に含まれているものである、その四次元的関係性の成立するところ。)そのたびに創造されるオリジナルにして普遍の時空間であり、またそのような存在としての、世界としての自分である。演奏されている時だけ存在する音楽空間、読書の現場にのみ生成され続ける永遠、テクストの向こう側。

これが「発見される世界構造」という「できごと」だ。
…って思うんだよね。イヤホントにさ。