酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「コンビニ人間」村田沙耶

こないだ、ポヨンと音がしたので見てみたら、

「『コンビニ人間』という本がある。感想を教えろ。」
という丁寧なメッセージが我がiPhone君に入っていた。

知らんがな。

「じゃあ読め。」

知らんがな。

…しょうがないなあ。
芥川賞をとったらしいのでちいとネットでの評を眺めてみる。
ふうん。読んでみるか。

これもご縁である。最近決まったジャンルや作家以外のものはなかなか手が出ないのでご縁は運命と受けいれることにした。

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コンビニ人間」村田沙耶

2016年芥川賞受賞作。

読者レビューページなんかをさあっと眺めてみると、大まかな共通の感想として代表的な表現としては「サクッと読めるけどモヤモヤが残る。」。

で、とにかく「おもしろい」と。
読了して、あれこれ納得した

 

おもしろくない。
おもしろいけどおもしろくない。

うまいな、と思う反面、この、何とも読後感の悪いからっぽのあじきなさはどこから来るのか。さくさくと口当たりはよくうまい味付けがなされているのだが後味は妙にやにっこく人工的でからっぽ。胃の腑に落ちるまでもなく大した毒にも薬にもなりゃしない。

確かにおもしろいという意見はとってもわかるのだ。
さくさく読める文字通りのおもしろさ、気の利いた乾いた笑いにも似たアイロニックで鋭い感性、時代を映す、きちんとしたオリジナルな視点、その表現の巧さ。

そう、巧さ。
時代の問題意識を映し出すものとしての「新しさ」、新鮮さ。


で、問題の焦点としては、その読後感としての「モヤモヤ」なんである。
ここに考え語る価値がある。(「試験に出ますよ~」な感じ)これは問題意識であり、問題提起への読者としての反応であるから、落とされた爆弾に対しての。

「普通」と「普通でないもの」を分別し異質を排除する現代日本の社会のありかたを、排除される側を徹底的に戯画化することによって排除するその周囲の人間をも併せて戯画化する。人並みの情緒、感情を持ち合わせない主人公古倉恵子と、社会的にも人間的にもどこからどう眺めても最低最悪底辺のクズ男白羽(この評は今まで触れた感想のなかで全読者に共通である。)の組み合わせはうまい。

…だが、この白羽が、実は出てくる登場人物の中では一番リアルに人間臭いのだ。社会の圧力やさまざまの不条理、そしてさらにいえば、それに根差している己自身に苛立ち、適応もできず、逃れることもできずただ苦しむ者。苦しみが己に向かわずひたすら己を正当化し、他者を責め攻撃する方向に向かう凡人。…このリアリティには笑ってしまう。こういう「男性」って別に底辺じゃなくても多いのだ。ペダンティックに論理を振り回しているようでいて、その実まったく論理が通っていない、己の都合に合わせて、くるくると矛盾してゆく。要するに脳足りんのひねこびた幼児性に満ちたエゴイストである。周囲の価値観にがんじがらめにとらわれもがいてさまざまの価値観と論理の間で惑い、己のアタマを持たず、都合の良い論理を探しながらただ振り回されているだけだ。これを周囲の「まとも」な人間は、キモい、と切り捨てるだけだが、主人公古倉恵子は全く情緒と感情を欠いた合理性でもって非常に冷徹に分析し論理的なツッコミをいれる。ここがアイロニックで小気味よいところかもしれない。

そうして、サイコパス古倉恵子、結局社会的に「使える者」として受け入れられ存在を認められる喜びと安寧をもってコンビニ店員のプロトコルをもって適応し生きてゆく道を見出す「非人間」的な主人公に対し、リアルな「人間」白羽はひたすら破滅するだけの哀れな不適合不良品的なる存在となって別れてゆく。

カリカチュアとして見え透いて鼻につく主人公のサイコパス強調のエピソードも多いのだが、さすがにぐっとくる感性は時折きらりと閃くように鋭い。

ビジネス街のコンビニエンスストアに向かう、その生活感を欠いた朝の風景をナマの人間性が死にゆく街として愛しむ感覚に私は共感するし、主人公の感情を欠いた冷静な分析は率直にしてシンプル、可笑しみがある。「何かを見下している人は、特に目の形が面白くなる。そこに、反論に対する怯えや警戒、もしくは、反発してくるなら受けて立ってやるぞという好戦的な光が宿っている場合もあれば、無意識に見下しているときは、優越感の混ざった恍惚とした快楽でできた液体に目玉が浸り、膜が張っている場合もある。」p63

…新入りコンビニアルバイトの白羽が店長に叱られて「け、コンビニの店長風情が、えっらそうに」と呟いたときの分析法開陳である。(この状況設定自体がほとんどギャグではあるが。)

「差別する人には二種類あって、差別への衝動や欲望を内部に持っている人と、どこかで聞いたことを受け売りして、何も考えずに差別用語を連発しているだけの人だ。白羽さんは後者のようだった。(中略)まるで私みたいだ。人間っぽい言葉を発しているけれど、何も喋っていない。」p64

白羽のノータリンぶりを余すところなく描写しているのではあるが、とりあえず、この作品、個人的には、めいっぱい批判したい、否定したい心で一杯になる、アンビヴァレントに満ちた、これは何だろう、割り切れない、キモチワルイ、そう思わせる意味でこの爆弾には価値がある。

主人公をまったくの透明な情緒のない宇宙人のような人間として設定し、この無色透明な「鏡」によって社会を成立させている透明な論理性だけ映し出すと、奇妙な滑稽さがあぶり出されてくる。周囲を映しこむ魔法の鏡のような主人公設定の手法である。周りの「普通」の「まとも」の口の利き方を学び真似し社会のパーツになろうとする主人公。そのリアリティが不気味で可笑しい。この風刺は、まさに、誰もが多かれ少なかれそのようなパーツを演じることによってこの社会、この世界が成り立っていることを自覚させられる、そんな可能性と攻撃力をもっている。

本作にはきれいな論理がある、感性がある。評価されるという価値があることに私は納得する。

だけど。

だけどやっぱり、決定的な、普遍的な文学としての、人間としての、そのクレバーさを越えた「パッション」がない。実存主義的、という評をどこかで見た気がするが、それには「この先」が必要なのだ。断言するが、これは世界に、歴史に残る名作にはならない、要するに。(例えば春樹には歴史に残る価値があると私は思っている。普遍性と閉じられない論理、パッションがあるからだ。時代性や面白さとともに。私はそれを深み、深淵と呼ぶ。だが)この作品には新奇な意匠ととりあえず完結し浅くきれいに閉じられたタイムリーな問題意識と閉じられた浅薄な論理しか見えない。あまりにも「わかりやすい」風刺である。

巧い、新鮮な意匠。だが本作に限って、その先がない。

…だが、もしかしたらだからこその芥川賞、可能性に満ちている作品であり作家なのかもしれない。感性と知性、筆力の三拍子、みんな納得優等生芥川賞。そして、だけど、だからこそやはりこれをおもしろい、おもしろいと言って終わらせる読み方には納得できないのだ。小気味よいアイロニー、現代の歪みを不気味さを浮き彫りにした良作であるとして。

以前、西加奈子の「i」を私は必要以上に批判的に読んだけれど、それに似た、ほとんど計算されたような巧みさ狡猾さへの反発を感じるんである。反感としてはあれよりはずっと弱いけど。こざっぱりとそれを隠さず吐露していることによってむしろ小気味よいといってもいい。(「i」は狡猾に過ぎていやらしさを感じてしまったのだな自分。)

だから、この割り切れなさを残した可能性、素朴な読者の反射的第一印象としての不快な「モヤモヤ」を批判的に語ることによっての価値がこの作品の、このような作品の価値であると私はとりあえず位置付けたいと思っている。否定の、あじきなさの、その先に、存在の、人間への愛しさ、美しさや祈り、それらへのさまざまを盛り込んだ「文学」へ、もっともっと混沌へ、深淵への風穴をあける人間の「パッション」がひらかれるために。

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これは羽ばたいてるんじゃなくて、羽を広げてじいっとひなたぼっこしてる公園の水鳥。寒いんだね、トリもカメもおんなじだ。