酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

おじゃる丸

おじゃる丸スペシャル「銀河がマロを呼んでいる」再放送してたから、また観てしまった。

やっぱりいいなあ、おじゃる丸
日本の誇るアニメ文化の中でも文学性を備えた類まれなるNHKショートアニメである。(しかしやはり長編よりも15分の枠組みのなかのレギュラー番組の中にこそその真骨頂はあると私は考える。)(因みに海外のものでは「アドベンチャータイム」が白眉だと思っている。このセンスには驚いた。やっぱり日本人とは違うんじゃないかなあという意味で素晴らしい。)(けどやっぱりおじゃる丸の深さとは、独特のこの日本的感性とは、うむむ、なんというか…「違うだろー」。)

ポピーザぱフォーマー」や「ウサビッチ」にも感服するけど、これら男性原理的なあじきない笑いや残虐性を伴った、突き放したスラップスティックな鋭さではなく、その透徹や不条理への思いを笑い飛ばすスタイルを、こんな乾いた批評性を保ちながらも限りなく優しい祈りを秘めたかたちで、抱きしめるかたちでの世界で表現した犬丸りんのこの作品(うつ病で自殺したって聞いて、さもありなんと思ったよ…このセンスと知性じゃなあ。)の女性性の深さを思う。「笑い」に対するスタイルの問題なのだ。世界と自分とのつながりをどうとらえているか。肯定への祈り。


この軽やかなナンセンスやパロディ精神の表層という深さは既に文学であるなどと思うんである。

そして文学とは何かということを考える。

何故聖書がゴリゴリとした折れやすい「閉じられた論理」としての教え、というよりは伝聞として、あるいは物語として語られなくてはならなったのか。法学や論理学倫理学のすべての基礎として「野生の思考」を生み出すすべての母体「物語」のスタイルをとらなくてはならなかったのか、というテーマにこれは行き着くのではないか。

 

…ということでおじゃる丸についてはいつかきちんとひとくさり語りたいところである。推しキャラクターとかね。「余は如何にしておじゃる丸信徒となりし乎」(内村鑑三)(すみません。)

寝よ。

おやすみなさいオライオン。
きっと明日(もう今日だ。)も今朝のような澄んだ夜明け。

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