酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

カミュ「ペスト」

「100分de名著」カミュの「ペスト」録画やっと観た。

「100分〜」はレヴィ=ストロース「野生の思考」テーマのとき初めて観たんだけど、それっきりで随分ご無沙汰してた。今回なんとなくどっこいしょー、と、久しぶりに溜め込んでた録画番組消費にかかったんである。週一でひと月分、全四回。

この番組やっぱりいいなあ。
カミュは「異邦人」しか読んだことないけど、初めて読んだときは予想外の面白さにびっくりしたんだった。

番組観だしたら、…やはりカミュってこんなにもすごいもんだったんだな。初回からぐいとつかまれた。そして二回目、三回目とビシビシツボにはまってしまってだな、これがもうじいんと胸に来てしまうレヴェル。

はじめて「異邦人」読んだ時も確か冒頭からもういきなり魂消たのだ。(これはあまりにも有名な最初の一文、っていうだけの意味じゃないよ。最初の数センテンスっていう単位で。)(「きょう、ママンが死んだ。」っていうアレは確かに訳文として衝撃的でカッコいいんだけど、文学としてオーソドックスに考えると、「ママン」っていう日本人にとって洒落たお坊ちゃん的なお仏蘭西お洒落イメージがあるのでちいと違うのではないかとも言われているという。それと、「死んだ」の切って捨てる荒々しさのあの衝撃の組み合わせの訳の独自性は、原文にはないニュアンスであって、「母」や「母さん」の方が原文に近いニュートラルなものだってね。まあ確かに。)(だけど訳文としてあの「つかみ」はやっぱいいと思うなあ。)(「ツァラトゥストラはこう語った」っていうより「ツァラトゥストラかく語りき」のほうがいいやん、っていうのと同じレヴェルで。)(訳のセンスのレヴェルなのだ。お洒落とか雰囲気とかそういうものだけじゃない。《そういうのもあるけど》「ママン」という甘いフランス菓子やフワフワした少女趣味なイメージが喚起された後たちまち「死んだ」と断じる、その切って捨てるような落差による主人公の語りのスタイルの提示、その切れ味、「こう語った」ではなく「かく語りき」と行ったとき現代の読者に与える印象はツァラトゥストラとの距離感の演出、それは既に言葉の「意味」の違いの範疇であるから。その「格調」とは。訳のセンスってのは文体のかたちを造形するスタイルを示すものであり、二次的ではあっても、いや二次的であるからこそ、ある意味創作でもあるから。「批評」と同じでね。)(異邦人、いやカミュ作品に共通する「母・ママン」への特別な思い入れの意味に関する視野に入れた「解釈」をそこには読み取ることができるっていう可能性のことだ。)

外国の名作なんてさ、そもそもの文化が宗教が言語が文法が違うんだから思考スタイルの基盤からして違う、見てる風景が違う世界が違う脳みその構造が違う、圧倒的他者だ宇宙人だハナから理解なんかできん、永遠にひたすらわからんのだ。その文化の産物を面白いと感ずるとすればそれは異国人から見たエキゾチシズムに対する嗜好によるものであろう。

…って思い込んでた自分には衝撃のおもしろさだったのだ。やっぱりね、カルチャーも思想基盤も確かに違う、理解できないとこが大きい、それでもエキゾチシズムとは異なる、それを越えたところにある、何か共通の問題意識を感じ、その衝撃を受けとることができる、その不条理への怒りのような思いの激しさへの共振に、その世界に対する視線と視点への共振に、己のその感動に対して驚いたのだ。魂からくる共振。その他者とのつながりの新しい可能性の発見に対して驚いたのだ。

 

それにしてもしかし、この「ペスト」の登場人物たちのものすごいかっこよさったら。…かっこよすぎる。(自分にとってかっこよすぎるとこは「異邦人」と対照し補完しながら考えていくとしっくりと納得できて一層面白くなる、ような気がする。つまり、「異邦人」で壊したものの再構築が「ペスト」である、という読み方ね。)(飛び立ち、舞い降りるというか死と再生というか破壊神シヴァから創造神ブラフマーへの螺旋というか。)(まあ創造維持破壊は元々世界存在そのものとしての神さまで三位一体だから分けられない、全てが全部っちゃ全部だけど便宜的にペルソナが。)(だってそれを言っちゃあおしまいよ。)

ここでこの指南役専門家、解説者が独自の用語をわかりやすくほぐしながら押し付けることもなく解説してく雰囲気もイイ。中条省平さん。マンガの解説本みたいなのも出してるんだね。(セールの電子書籍であったからついつい購入してみたけどこっちの解説はあんまりピンとこない。多作品を紹介して並べ立てただけでちいと概略的にすぎる印象。)なんとなく、さもありなん。(漫画への差別のない理解がさ。)そしてかっこいい憧れの書斎風の部屋で、古めかしいタイを結んだかっこいい青年が朗読する感じもイイ。

どんな番組かっというと、こういうのです。番組HP。

「ペスト」読んでみなくちゃなあ。

…と、さっそく図書館から文庫を借りてきて、ぢみぢみと読み始めてはみた。

読み始めてはみた。
とはいうものの。

結構な長編で古い直訳的翻訳のせいかとてもとても読みづらい。文体自体読みづらい。わかりにくい。名訳とはとてもいえない。まあ原作ももともと理屈のこね回しかたがすごいものなんだけど、いかにも仏蘭西語的な言い回しも思わせぶりで翻訳調なじむまで大変で、これはもちっとどうにかなるんじゃないかブツブツ…。と文句たれつつ、まあ長く辛いその世界の現実を味わわせるように、と言えばそんなもんかねい。文体は慣れだしな。(異邦人の方が短いし、やっぱり純粋におもしろく読めるレヴェルであったと思う。)(最近長時間脳みそがもたないのよオレ。)(TVみるのもおじゃる丸NHKの朝のドラマの15分が限界。)

まあね、とかなんとかいうことでとりあえず放送四回分、番組の印象、自分のための読書の手引き用メモを指標にしつつ、膨らませる企画をもって、一読の備忘録的な記録。(こればっかりいってるけど、いつかきちんとしたもっとまとまったわかりやすいかたちにつくりあげてみたいものだ。)

 

★放送第1回 「不条理の哲学」

ペスト(災厄)のはじまり。
鼠が狂う。人が倒れ始める。

社会システムがこの未曽有の事態に対応しきれず泡食って混乱しているうちにあれよあれよと災害は拡大し、強制的に街は封鎖される。(逆ベクトルな表現ではあるが、この「封鎖」閉じ込められるこのイメージは、カミュ的解釈によると、世界、社会システムの内側から外部へと「追放される」ものである。)(ちなみに一般にこの「ペスト」という災厄はナチス占領という災厄の暗喩と言われている事態である。)

旅行者ランベールの一見エゴイスティックな幸福(自分は旅行者だからこの街の災害とは関係ない、自分は恋人とともにフランスに生きるべき者だ、逃がしてくれ。)とそれを阻む医師リウーの社会的正義・理想抽象論の衝突。

リウーの言葉は「抽象」であるとランベールは批判。個人の幸福を侵害する「抽象」という意味合い。

ここで「抽象」とは何か?

「ペスト」は抽象である。リウーの正義、理想論もこれしかり。
相対する概念は現実、実際としてのランベールの個人としてのリアル、具体としてのその個的な幸福、一人逃げて恋人と暮らす。(リウーは本当はどこかでランベールの「正しさ」を認めている。法的な社会正義より個人の幸福の方が「正しい。」)(だが「抽象と戦うためには多少抽象に似なければならない。」と考える。)(新潮文庫p133)

ペストによって引き起こされる対立の図式としては、これは「個々人の幸福(家族揃っての日々、続いてゆくはずの日常の暮らし、個々の人間の間にある愛情)V.S.社会正義(ペストの宣告・患者隔離<殆どこれは死の宣告に等しい。>」にあたる。ここではもちろん前提となる「個々人の幸福(具体)V.S.ペスト(災厄、不条理としての抽象)」という図式はあらかじめ成り立っているものなのだが、この先に、リウーの呟く、社会正義(抽象)V.S.ペスト(抽象)という第三の図式もまた存在することになる。

抽象対具体(≒実存)(いや、「実存」とはこの二項対立のアウフヘーベンへの志向性をもっているというべきではある。)、この二項対立はさまざまなヴァリエーションで高く低く変奏されながら、いわば作品の理論の柱として終始謳われつづけているテーマとして読むことはできるように思う。

 

★第2回 「神なき世界を生きる。」

ピックアップされるパヌルー神父の意味。(パヌルー神父とは「抽象」が「真理」となるところである。新潮文庫p134)

彼の主張「ペストは神の審判のしるし」。これはいわば、反・実存(反・リウー・タルー側)とでもいうべき主張である。(後述するように、これが劇的に変化してゆくところが作品の読みどころである。)

あらゆる「不条理、災害」が天罰であるという論理。罪が罰される発想。逆に言えば神によって救いはある。ここでは真理が実存に先立つ。或いは優先される。論理としてはすっきりとシンプルに閉じられて完結している。「ほころびはない。

さてそしてここでもうひとり、医師リウーやランベール、パヌルーらといった信念をもつひとたち、今まで触れられてきたこれら主要登場人物とは対照的な、非常に興味深い登場人物がクローズアップされてくる。

密売人コタール。

小悪党である。が、彼の印象はある意味善良ですらある。平時には自殺未遂までする個人として背負わされたものである罪と罰の苦痛に苦しんできた者が、公に天から降りかかってきた災害、すべての人に等しく天から下される罪と罰の試練、ペストによって皆が己と等しい立場のものとなる、という状況のもとに、逆説的にそこから解放され救われるこのコタールの存在の意味。(これはすごい。)

「しかし、結局、ペスト以前にだっておんなじぐらい危険はあったんですからな、往来の激しい四辻を渡るときなんか。」(新潮文庫p214)

死の危険の確率なんて、日常という物語の中では隠蔽されている、したがってその物語から「追放された」ところで初めて気づくもの、その発見、あるいは意識するかしないかの違いに過ぎない、いわばペストの恐怖が抽象に過ぎないものであることがここでは看破されている。

個人的に、このコタールの存在が最もすさまじく気になるのだ。
リウーやランベール、パヌルーやタルーは抽象やそうでないものについてひたすら考えひたすら正義を求め正しい道を求め論理を求め、それ故に不条理に苦しむ、いわば求道者だ。

コタールは違う。
彼は、「抽象」に惑わされるプロセスを持たない。

(グランもまた対極の位置をもって抽象に惑わされない立場をもつが、これは己の人生に対してコタールと全く同じ態度をとっているといえるのではないか。)(構造として。)

彼は長い間その罪と罰の不条理とともに生きてきたことに極めて自覚的だったために。「後述するここでの特徴的な『モラル』の意味がグランとコタールを分かつものとなる。単純にいい人悪い人、自己犠牲エゴイスト、あるいは殊更な美学や正義という問題系から完全に離れた、無色の、純粋な論理構造としての「モラル」だ。」

結局最後には狂人となって銃を乱射し逮捕されてゆく寂しい結末を迎える彼もまた何かの犠牲者ではある。見捨てられた、世界から追放された恐怖と寂しさを体現するひとつのかたちである。

ペストの終焉(ナチス占領からの解放)の祝祭の中で破滅を迎える彼と、新しい日々の暮らしを再生しようとするグランの「同じ場(同じアパート)(解放による歓喜の祝祭に参加できない者たちの不幸な空間の象徴)にありながら生死を分かつ」イメージもまた実に論理的である。モラルの分かつもの。ペストからの解放の際、共に幸福を得られなかった者たちの、しかしそこで分かたれる生の明暗。


★放送第3回「それぞれの戦い」

パヌルー。タルー。リウー。グラン。それぞれがそれぞれの道でそれぞれの正義を探し、災厄と闘い、身の危険を顧みず献身的に奉仕する。

そしてオトンの息子・無垢な子供の激烈な苦しみと死、そのあからさまな不条理の露呈に出会ったときを契機として、それぞれの反応が劇的に論理展開してゆく。(人を裁く判事オトンの平時の冷ややかな俗物ぶりと、ペストに冒された息子への素直な愛情の吐露されるその極限状態の描写の対比は非常に印象的で…美しい。)(彼もまた献身に走るものとなる。)

神と罪と罰と。存在の辿る「道」(道義)ともいうべき命題の周りを彼らは巡る。

リウーは神の論理を打ち砕く不条理に直面し、打ちひしがれるパヌルーに告げる。「われわれは一緒にはたらいているんです、冒涜や祈祷を超えてわれわれを結び付けている何ものかのために。それだけが重要な点です。(p322)」

抽象や真理を超えたところにある実存を彼は語る。このあじきない実存を。だが。そこには真理や正義を超えた救済のために働く至高と信じられるものがある。パヌルーはここでリウーを、そのまるごとを認める者となるのだ。

カミュ作品で思うのだが、皆がそれぞれになんというか、恐ろしくまっすぐなのだ。人生に対して誠実なのだ。悪役、愚かであるだけの人間というのはいない。

そうだ、実際、そうなのだ、だから素晴らしいと思うのだ。
すべての人間に仏性を見る、むしろこれは仏教的ですらある。後述するが、カミュの思想のなかで宮沢賢治の思想に繋がってくるものがあるのもこう考えると宜なることであるかもしれぬ。

言わばこれは、金子みすゞ「みんな違って、みんないい」という命題をもっともっと辛口というか鋭く描き出そうとしている。(ここでその「みんないい」は、「みんなだめ」がそこに等しくあるところから始まる、意志としての「みんないい」だ。)さまざまの正義の、倫理の相対性のことを。まさしく賢治が苦しんだその倫理の相対性のことを。もっとも難解なこの問題を。


…パヌルーもまた鮮烈な印象をもつ思想を代表する者なのである。抽象と真理に殉じようとする側の者。だがそれはオトンの無垢なる息子の理不尽な苦しみと死のあまりの残虐さに直面してから、彼の第一の説教であらわれた理論のようにリウーの「実存」を否定する形をとれなくなる。これはペストが猛威を奮っている最中に激越なる痛みを伴った生きた血の流れるような説教が行われる形で示されるものだ。凄まじい極限状態における、その鋭くなまなましい具体を踏まえた上での「抽象」。ここで最初の高邁な説教においては民衆に「あなたがたは」と語りかけた主体パヌルーは「わたしどもは」と語るものとなる。ここで初めて論理は、抽象は、その身から発され己に帰する実存と一体化した命あるものとして打ち立てられはじめているのだ。

「異端すれすれ」とリウーは思う。いや暗に示されているように、彼の最後の論文(パヌルーは神学者だ。)においては既に異端であるところにある極限の信仰、そして殉教。この殉教のかたちも見事な描き方がなされる。

ペストによっての死ならばパヌルーの勝ちだ。彼は彼の神に選ばれている。
そうでないならば、彼の極限の抽象、真理、信仰、その血を吐くような説教に…彼の生涯は関わらない、意味に添えない。

そして、彼の死因のカードにはこう書かれる。「(ペストかどうかは)疑わしき症例」

この辺り、実に絶妙なんだなあ、カミュ。物語の論理は決して閉じることのないほころびを残したまま描かれる。開かれたまま、その思考のたえざる連続が読者に強要される。連綿と、その思考の遺伝子が受け継がれてゆく。テクストは常にダイナミクスの中にある。それは強要してくる。読者に、アンガージュマンを。考えろ、選べ、意志を持て、と。

文学ってすごいのだなあと急に思ったりするよ。(すみません文学部出身ですが。)

今の時代にも、というか今の時代だからこそどんぴしゃだ、という問題意識がざりざりと心に鑢をかけてくる。いつの時代どこの国でも通じるところがあるからこそ名作と言われる所以なのかもしれない。

極限状態における人間のエゴイズムを真っ直ぐに見つめる冷徹さと絶望と(いかにも仏蘭西人的な「仏蘭西語的な」」皮肉なものいいで語られる言葉。)、それでもその上でなお人の性善に似た正義への思いを信じる言説を綴る、その同じ筆が描き出すこの「実存」という思想のことを考える。すべては、ただ当たり前にそこにある。

万感の思いと無関心の振幅のなかで語られる言葉は、例えばまず春樹の言う「それだけのことだ。」と同じ性質をもつ語りである。これは「ほころび」なのだ。そして結局ここで切って落とされた後の余韻は必ずどこかで引き受けられなければならない。読者に、そして、矛盾しているようだが、あるいはそれは膨大なその作品全体の言葉がそれにあたるのかもしれない、ということを思う。

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「しかし、筆者はむしろ、美しい行為に過大の重要さを認めることは、結局、間接の力強い賛辞を悪にささげることになると、信じたいのである。なぜなら、そうなると、美しい行為がそれほどの価値を持つのは、それがまれであり、そして悪意と冷淡こそ人間の行為においてはるかに頻繁な原動力であるためにほかならぬと推定することも許される。かかることは、筆者の与しえない思想である。世間に存在する悪は、ほとんど常に無知に由来するものであり、善き意志も、豊かな知識がなければ、悪意と同じくらい多くの被害を与えることがありうる。人間は邪悪であるよりむしろ善良であり、そして真実のところ、そのことは問題ではない。」(p192)

「ペストがその仕事ぶりに示した、実効ある公平さによって、市民の間に平等性が強化されそうなものであったのに、エゴイズムの正常な作用によって、逆に、人々の心には不公平の感情がますます先鋭化されたのであった。」(p350)(生活必需品、食物の価格が高騰し、貧富の差が広がる。儲けようとするものが儲けつづけ裕福な家庭はなにも不自由しない。ここには死の平等だけがあった。)

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そしてタルー。彼は、はてしないペストとの闘いの極限の疲労の日々の中で、ある日、同志・盟友、リウーに語る、己の「内なるペスト」。その告白。

「内なるペスト」とは、その意味とは何だろう。
(番組では、いじめる人間とそのいじめを放置する者の比喩で語られる。)状況を放置するところに己が既に加害に参加した事実がある。彼は、己がその加害の側に立っていることの苦しみを、判事であった父親が他者に死刑に宣告するシーンを目撃したところから常に抱いてきた。タルーはその「加害」という抽象された悪を「ペスト」と呼ぶ。あらゆ悪徳、悪しきもの、あるいはわろきもの。…そう、悪しき、というより、わろきもの。それは、巨悪であるというよりも、よくない、というだけで加害の一端を担っているというリアリティなのだ。その父の罪によって幸福に育てられた己の存在の自覚。

 

…この苦しみの形は先に予告したように、宮澤賢治にもよく繋がるものだ。裕福な質屋の息子として生まれ、その質屋が貧しい農民から搾取するようにして豊かに暮らしている、その加害の側に立ちそれを享受している己の存在の罪の苦しみが賢治を社会変革への志へ、そして最終的には自己犠牲的な行為へと駆り立てた。

タルーと同じ行動パターンである。タルーは若き日に家を飛び出し、正義を求めるためにゲリラ活動に参加した。そしてそのイデオロギー同士が、正義を求める心同士がぶつかり合って果てしない殺し合いになる地獄を味わってきた。「抽象」の倫理が人を殺すその現場の生々しい「リアル」。「倫理の相対性」への苦しみである。

「僕ははっきりそれを知ったーわれわれはみんなペストの中にいるのだ、と。そこで僕は心の平和を失ってしまった。(p375)」

「ペスト=災厄」の現場において、犠牲者となるか、加害の側に立つ者になるか、その二択なのか?…第三の範疇を彼は医者の立場に求めてゆく。それが一見自己犠牲に近い行為になってゆくのだ。生きたまま聖者になりたい、と彼は語る。

リウーがペスト(災厄)と闘うその第三の選択をなした「医師」であり、タルーの選んだ「道」としての盟友となってゆく理由がここにある。

 

「まあ、そういうわけで、僕は、災害を限定するように、あらゆる場合に犠牲者の側に立つことに決めたのだ。彼らのなかにいれば、僕はともかく探し求めることはできるわけだ。どうすれば第三の範疇に、つまり心の平和に到達できるかということをね。(p378)」

 *** ***

「異邦人」は、主人公ムルソーの個の視点から語られていた。彼は社会の内部に仕込まれた不条理をあぶりだし、その目隠しによって成り立っている社会の虚栄からあらかじめ排除されている己の存在の形に誠実であろうとした。ここではただ「<システム(世界、あるいは社会、論理、倫理、ー(物語)>V.S.<その外部>」の二項対立がクリアに成り立っていた。そして、ムルソーの強い感情によって、この作品では<その外部>へと飛び立ち逃れていこうとする偏向が強かった。

だが「ペスト」では、一種そこからの揺り戻しが見られるのではないか。

「異邦人」は、システムの外部へ、すなわち、ムルソーの意志的な追放の享受、死の方向へ投げ出されたままのところで終わった。この「ペスト」では、ここから新たに再び新しく世界の内部に舞い降り立ち戻り(…言わば生まれなおし、)あくまでもその中で(また己の内部で)(内部に含まれている己の「永遠の敗北」の中で)それと闘い続ける術としての知を語ろうとする。そのためには、前者のような個の中に完結することのできるひとり語りのドラマではなく、この「ペスト」のような倫理の相対性をなんら裁くことなくただ描いてゆく多面的な群像劇となる必要があったのだ。…おそらく。

 

★放送第4回(最終回)「災厄の終焉」

唐突なペストの終焉。人々の狂気乱舞の祝祭と傷跡に打ち沈む損なわれた人々の対照、そのこもごもがリウーの足取りから描かれる。

(この部分は、一般に、ナチス占領からの解放の描写としての解釈で読まれている。これはしかしやはりあくまでも抽象としてのペストからの解放であり、作品においてナチス占領という「具体」は可能性のひとつであるにすぎないと考えるべきである。…のだが。この部分の描写はナチスからの解放であるとしか読めない、とも思われる筆致である、とうかそう言われてもまあ仕方がないくらいのあからさまになまなましすぎる感情的な描写があることに間違いはない。ものすごい思い入れと理屈っぽさである。難解というかたくさんの論理がやたらめったら投げ出されていてものすごく読みにくい。前述したような抽象ー具体やなんかの、カミュのこの作品における理論のおおまかな骨組みを押さえてからその「たくさん」を解きほぐしていくべきなんだろな、研究者にとってはそういうのがおもしろさでもあるところだろうから。)(その「たくさん」はそれぞれがそれぞれものすごく深く掘り下げられるはてしない曼荼羅なものである。)(あまりにも大風呂敷になっちゃうから今できないけど。)(いっつもそんなことばっかり言ってるけど自分言い訳大王。)(いやだってさ、今お手洗い行こうと立ち上がったらまっすぐ歩けないくらい泥酔してるし。)(しゃべったら呂律もまわってないぞきっと。)(深夜ガソリン入れて勢いつけないと書けないんだから仕方がない。)(ガソリン=アルコホル)(そういや大学院の時の先輩は「オレ爆音でアイドル聴きながらじゃないと書けないんだよ、論文。」って言ってたな…。)(それもどうかと思う。)

終焉。やがて封印されてしまうであろう、一時は共有された人々のリアルな痛みの記憶のことをリウーは思う。タルーと妻、愛と盟友。個としての愛と救いをペストによって失い、一個の悲しみの闇となって、周囲の明るい解放の春の祝祭のなかを、いわば春のなかの修羅のようになってその万感のなかを歩きながら。

その終焉から新たに始まる終わりなき戦い、反抗。連帯。(語ること、忘れないこと、封印しないこと)…全てはリウーの「書く行為」へと収斂してゆく。その決意表明。

第三の選択、究極の救いへの道を探るべき、災厄を癒す者「医師」リウーはここで「書く者」へと収斂してゆく。

ここではじめて明かされる隠されていたこの文章の書き手の、その種明かしの意味はそこにある。忘れられてはならない、常に潜んでいる、永遠にいつでも襲い掛かる準備をしている、その災厄、ペストの記録を、記憶のリアルを過去とこのとき当事者の鎮魂のために、未来への思い祈りのために。それが「知」であるというところへ。

 *** ***

ところで、おまけというか、おう、と思ったというか。
さすが仏蘭西文学の専門家、語彙の翻訳についての考察も大層おもしろかったことを付記しておきたい。

モラルという言葉は、日本語では道徳、倫理、といった意味合いで訳されるが、モトはラテン語で風習、生活習慣、そして、「道」。ギリシャ語のエートスに近い意味合いを表すという。…これは深い。

倫理、というのともまたそのニュアンスが、意味の範疇が、微妙にズレている、異なっているのだ。翻訳と、その語のそれぞれの時空での意味の広がりの多様…そうだ、ああ、実にこれが言葉の、文学の、無限の深さ、豊かさ、面白さなんだよなあ。

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ベランダから、秋の夕暮れ。