酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

文体

文体というのは音楽や香りに似る。


その、文「体」というスタイル全体を覆い支配している見えない気配、いわばその「体」に憑依した魂、そのオリジナルの「法」としての「行間」のようなもの。享受者の感官がそれを感じた瞬間に、五感をすべて巻き込みそこを超えた次元を読書の現場に生み出すもの。

香りが記憶を呼び覚まし音楽が魂を別世界へと連れてゆく。世界の色が変わる瞬間がある。言葉も同じだ。意識野に上る言葉、その音韻の響きの向こう側に共振する恣意として設定されたはずの意味の、その共鳴の響きによって世界の色を変える。音韻という形而下フィールドと意味の形而上フィールドの狭間に危うく存在する、文体。…私はおそらくテクスト、というもののことを語っているのだ。そのリズム、そのスタイル、そしてその志向するあてさき。シニフィエシニフィアンの統合されたところにうまれる衝撃。ヘレン・ケラーが叫び出さずにいられなかった、世界が発見されたときのその激しいリアル。

言葉の力。文体の個性。見えないところに潜む、その捉えがたいかそけき気配のようなものこそが、世界を救う革命をひそませているのではないかと思うのだ。

 *** ***

文体に限らず、一般に、大きな力を持つものは、そのすべてが捉えがたい気配のようなところにこそ力の本質を秘め持っている。どんな既成の論理や権力でも支配できない予測不能な方向性をもった、そしてけれど確実に世界が必要に迫られた何らかの方向を指向している切迫したその力。個々から発されるかそけき気配であっても、けれどそれはやがて確実に大きな力を以て何人にも抗いがたいものとして目に見える形として実働してゆく。換言すれば、それは論理化されない、それ以前の、そこからはみ出た外部、マトリックスの力を示すからこそ、既存を破壊する革命の力を持つのだ。

それは未だ名付けられることのできていない力のことをいう。論理は、知は、すべてをそれを後追いするべきものである。実存、存在とは本質或いは真実という抽象、物語に先立ってあると考える実存主義に立つ必要がある。まずは必ず。それはとりあえず、そう…命題なのだ。(ちなみにこの発想、あきらかに今カミュに凝っているところから来ていると自覚している。)

世論、大衆しかり、経済しかり、政治しかり。そして、天災しかり。ひとときそこに君臨してみせるどんな権力者も「今をときめく」一刹那を得た後は凋落あるのみである。(政治が論理で動こうと宗教で動こうと占いで動こうと、結局は同じことなのかもしれない、というようなことすら思う。それはただ権力に名付けられた名前に過ぎないのだし。)

万物流転。固定された論理による永遠や絶対はない。彼は「とき」を得ているのではないのだ、たまたま符号が一致したという理由で、その「とき」に得られているのだ。他の多を支配している一ではないのだ、他の多に共鳴した象徴としての一なのだ。その一と多の関係性、ひとときの蜜月のパ・ド・ドゥ。そしてそのときの一なる彼である支配的論理はやがて崩れ去り、次なる形へと流転してゆく。諸行無常とはよくいったもんだ。そして行く水のかたちはかわらない。

世界とはそもそも単一の論理では捉えきれないものなんだから、というとこから考えればまあ当然と言えば当然なんだけど。その当然とは、すなわち各々の論理のもつ死角、あるいは敢えて目をふさいでいる概念以前のところに秘められあるいは仕込まれた「ほころび」のようなものからくるのではないかな、と今私は考えている。ほころびから次の新しいものがやってくる。

まあそこでだな、その「空気」を支配するもの、「いまをときめく」の「とき」とはなにか、という問題で、類似する構造をこの「文体」というテーマに感じたのだ。とりあえず権力の話とは離れてね。


 *** ***

次に何読もうかな、の日の夜、あまりにも異なる文体の本を次々開いてしまって、なんだか唐突に新鮮なショックを受けたのだ。それでこんなことを考えたんだ。

そう、わかってたことでも何度でも新鮮にショックを受ける。「読書の現場」的なるもの、その現場性とはそういうものだ。いつでも現在として立ち上がる神話としてのテクスト。そういう意味で読書とは儀式である。

そしてそれらの文体からかぎ取ったものについて思考の触手をのばし自分の頭で考えることができるのもそういうときしかない。瞬間のリアルもまた何度でも失われる。概念化されていない源泉に触れ、そこに生きる時空を得る瞬間。それは無時間であるがゆえに瞬間であるが永遠でもある。絶えず失われ続けながら絶えず形作られてゆく、世界の、「現在」の、「存在」の生のかたち、リアル。そのとき、同じ構造の概念が何度でも新しく立ち上がる。幾度でも新鮮に、存在が耐えられないほどの破壊力をもった新鮮さを孕んで。

ひとはそれを「きちがひにならないため」に「がいねん化」しなければならなくなる。

これは賢治の言葉だ。「青森挽歌」。

この詩(作者曰く「心象スケッチ」)の以下の引用部分は、愛するものを失った激しい喪失を表現したもので、単なる読書体験とは比べ物にならない、というかもしれないが、その激烈さの度合いを度外視すれば、認識の構造それ自体としてはまったく同じものだ。感ずることと概念化することの関係性からいえば。そして読書行為とは言語による世界認識行為のひとつのアナロジーである。

「感ずることのあまり新鮮にすぎるとき
  それをがいねん化することは
  きちがひにならないための
  生物体の一つの自衛作用だけれども
  いつでもまもつてばかりゐてはいけない」


 *** ***

さて、で、文体とは何か?
というところから、文体分析についてである。

些末な言い回しや語尾の傾向、多用される単語等、具体例を挙げて分析してゆくことはもちろん可能である。そこから全体像を描いてゆく手法。それはあるいは細かなデータ数値から全体像へと精緻に積み上げてゆくミクロ経済学的なるアプローチに似ているものかもしれない。そういうベクトルを持ったミクロ視点。(経済学上でのこの厳密な意味は知らない。素人の描く大雑把なイメージね。)

(こういうパーツを組み上げる才能、びっくりするような文体模写の技術を持った人っている。有名なのでは水村美苗漱石模写とか、春樹の言い回しのパロディとか。)

だがそれはやはり全体像ではない。初めから直観としては既に完全に感覚されているものであるその「そのもの全体」、色、匂い、音楽、触感、感情、その感覚。既にあらかじめ存在しているものを「概念化」によって存在証明していこうとする、天体の発見や数式による世界の法則の発見のプロセス、その在り方にそれは似る。作品世界という具体を産みだす力であるもの。要素によって積み上げただけの作物では、どこかひとあじ、あるいは決定的な核心が損なわれている。誰にもそれが一体なにであるかを論理として指摘できないとしても。

…その時ほんとうに描かれている完全体としての全体像は、マクロ経済学的なレヴェルでの大局、というある種の飛躍、ジャンプを孕んだ上での積分結果である。構造的に、その存在成立過程の記憶にどこかミッシングリンクを組み込まれているマクロ視点。逆に言えば、その構造には「ほころびが仕組まれている。」100パーセント、あるいは絶対、あるいは真理というものが存在しないことと密接に関連しているところのもの。

或いはそれはゲシュタルト理論。必ず要素プラスα(飛躍要素)のある直観を孕んだ(それは外部への亀裂、あるいは「ほころび」の内包という意味でもある。)ものとしてのアプリオリな全体像。

それが文体だ。

「体」をもった文章の、そのスタイルに瀰漫する「法」の中での物語に没頭し支配されつくした後、ふと顔を上げ、己の置かれた現実という物語を客観化する瞬間がある。それはどこか、奇妙な午睡から夢から覚めたときの不思議な気分に似る。一瞬「イマココワタシ」がまったくわからない不思議な気分。生まれたての不安。世界が異様なリアル、物語以前の裸の無意味の塊に見える。「違って見える。」…違和感。これはまさにロシア・アヴァンギャルドの主張した「異化」効果である。

主体自身が含有されている「現実」とされる恣意としてのひとつの世界認識構造、その成立の前提自体を対象化、可視化、相対化するギリギリの方法論の一(いつ、ひとつ)。それはこの違和という「感覚」に根差したものである。すべての論理はそこからやってくる。論理以前、非論理としての論理である、認識以前の認識、という狭間の、メディアの、アルケーの、始原の、そのような矛盾のダイナミクスの場にのみ成立する動的な現場性を持ったマトリックス

世界によって人は成る。世界を感ずることによって、そして認識することによって人間はその個、あるいは属性として成る。主客の関係性の中にその存在が成立する。

とすれば。

世界は、己は、選択できる。否、意識、自覚しているといないにかかわらず、主体は既に否応なく選んでいることによって存在を枠どられながら生きている。

或いは、だから、創造することができる。己を創り上げることができる。己を捉えてあるものを認知し他による支配を退け、自身が選択し展開しようとするクリエイターであることによって世界と自己を支配・コントロールするのだ。

選ばなければならない。己の触れる世界を、文章を。

それは、己の蒙昧からくる苦しみからの解放のためだ。息苦しいものに閉ざされないためだ。


生まれたての子供に最初に与える言葉や絵本や、それらを慎重に選んでいかねばならぬ父母の義務というものがある。文体の持つ力は、にんげんの一生にとって致命的に激しい毒となり己を腐らせるものでもあるのだ。

敢えて毒を選ぶことを人はする。
それは恐怖からくる行為である。はじめに恐怖という文体を与えられた人間は己を守ろうとする。そしておそらく恐怖それ自体、それだけが己を守るための武器になるような気がするのだ。

蒙昧のはじまり。

 

おまへの武器やあらゆるものは
おまへにくらくおそろしく
まことはたのしくあかるいのだ
(青森挽歌)

 

すべてひとは、ほんとうの快楽を呼び覚ますものを失わないために生きねばならぬ。
楽しい世界を創造する万能の神様みたいな世界支配者となることが誰にでもほんとうはできる。

 

と、2018年9月29日土曜、トキヲ嵐の前日にべろべろのヨッパライは思うんであるよ。


明日は傘をさして今秋初のモンブランを買いに行きたいんだがなあ。

f:id:momong:20180930000748j:plain
今年初秋刀魚、ミッション完了。ピカピカきれいに目の澄んだ嘴の黄色い、イルカみたいに背中の盛り上がったうまいヤツ。大根おろしとすだちとね。