酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「おやつ」アンソロジー

PARCO出版の本ってのはどうも洒落ている。スタイリッシュ。

で、スタイリッシュでありながら、しっとりとした古めかしさに裏打ちされた風格もある。(それはどこか、思想、芸術、街、文化すべてがファッションになった昭和末期のt東京の匂いがするものである。私はその時空を生きた宿命としてそれへの執着と偏向を自覚する。そしてそれに対して、己がそれらすべてとともに確かに存在したというだけで、それがかけがえのない一回性の唯一であるというそれだけのことで、胸がいっぱいになるほどの、そんな共存在としてのすべてへの誇りを確かに持っている。)(良し悪しは別である。)(生まれて生きたというだけで人は誰もがそうあっていいしそうあるべきなのだ。)(断言。)(…少しだけナウシカのようだな。)

写真、フォント、編集、装丁。心憎いばかりである。

構えることなく、熟読、ということでもなく、ふと気が向いたときぱらぱらとページを開ける雰囲気の魅惑のおやつアンソロジー。何よりも表紙のモンブランがいい。f:id:momong:20180829225930j:plain
目次を眺めているだけでおやつゴコロがときめいてしまう。
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そしてこういうアンソロジーは作品の選択配置がキモなんだが、これがなかなかよろしいんである。のっけからの森茉莉のシュウ・ア・ラ・クレェムのインパクトにヤラれた。
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おやつには、甘いものには人生の隙間がある。逆説的に言えばエッセンスがある。子供の頃の思い出がある。それは身体の、生活の糧ではなく心の糧により近いものだから。

それは、必需の糧でなく嗜好品である、という意味から来ているのだが、同じように精神のための嗜好品であっても、甘いお菓子には、例えば酒や煙草や珈琲、といった大人の男性を象徴するタイプの嗜好品とはまた一線を画する「女子供」だけのまっすぐで真理に近いと言ってよい崇高さをもっている。

それは、虚栄や物語や美学や形式への形骸化を(比較的)逃れることのできる被差別民(オンナコドモ)のまっすぐさ、被差別分野であるからこその、物語化や社会化、共同体的に様式化される、文化的な意味への偏重、焦点化、抽象化を限りなく逃れてゆく周縁のところにあるからこそなのだ。限りなく現場的、個的であり、優しい母なるものへの思い出にのみ根差す聖性に連なるもの、アンタッチャブルに連なるものであるから。

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アンソロジーという体裁によって際立つそれぞれの作家の個性、それぞれの文章の持つ多様なふくらかさを楽しむ。短い文章の中に、各々は馥郁と爛漫と香る。

こういう本はね、眦決した重たい激しい主張や物語ではなく、ほのかで純粋な甘さや軽やかな優しい情趣それ自体を打ち出しているものほどいい。妙にあざとく小賢しく作りこんだ、人生の物語をからめて感動を押し付けてくるような器用な流行作家のものより、流れゆく日常の風景のひとコマを縫い留めた、軽くしっとりとした淡い情趣の余韻を打ち出しているような、そんな作家の片手間の雰囲気のものほどいい。全米が泣いた制作費用数億円の大作よりも、晴れた日曜日のカフェで珈琲の香りの向こう側に見えるさまざまの人々の物語の風景。

それぞれの作家の愛好する思い出のお菓子と作品との関わりかたを考えるのもちょっと楽しい。春樹のドーナッツ小理屈とかね。(割と好きなんである。ディレッタンティズムというか、紳士たちがバーやパブでちょっと戯れにうんちく垂れたり言語や論理を弄んだみせるような、そんな、世界の無意味さくだらなさを愛しみ楽しむような、時空の隙間、人生の隙間みたいな雰囲気。)

…しかしパラパラと見た限りでは、一番食べたくなったのは森茉莉の描写する「シュウクリイム」だなあ。風月堂の、皮の薄い柔らかめの、卵の風味の濃いクリームがたっぷりつまった昔ながらのクラシックなタイプ。

読んでたらすっかりシュークリーム気分が盛り上がってしまい、今週末にでも赤坂の「しろたえ」のシュークリーム買いに行ってしまおうかしらと思いつめる勢いである。(しかし個人的にひとこと言わせてもらうと、この本の欠陥はモンブランの話がいっこもないところである。これはあきらかに企画段階における手落ちであろう。)

俳句には詳しくないけれど、中村汀女さんの文章のふくよかさにも驚いた。俳人とはかくも繊細にして微妙で味わい深い感性と言語センスを、知性を備えているものか。雅とは知性ってことなんだなあなどとしみじみ感服。羊羹やかすていらの情趣を思い浮かべる。(羊羹の美学と言えば谷崎潤一郎の「陰影礼賛」だけど、ここでの美学なイメージもまさにそれだな、ウン。なんとも言えぬばかばかしいほどの純粋な美学が、繊細さと品格がある。)味わうということの、その丁寧さ、繊細さ。そのように生きること自体に対する誠実さの美学が貫かれている、そういう類の言葉の力。

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で、ワシは小説の方は実は読んだことないけど、五木寛之さんのエッセイが結構好きなんだが、先生ここではメロンパンに関する文章をひとくさり。…これがやはりとっても楽しい。

ということで、潜在的メロンパン評論家、五木先生もきっとお気に召すであろう、皮がカシっと乾いていてサクホロふわりの焼きたてさん。ほのかに甘く切ないおやつメロンパン。まだあたたかいパン屋の袋を抱えて帰る帰り道の幸福感は普遍の真理である。おそらく。
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