酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

夏の朝

月曜の朝であったと思う。

夏の朝の中を歩いて、まばゆい朝陽を浴びた町の物語を感じた。挨拶をしながら行き交う人々、あくびをする人を乗せたバス、工事現場の作業員たち、きらきら光りながら走る車たち。いつかの、健やかな夏の物語。それぞれの、人々の、朝。空は青く明るく光っていた。

前方から、華奢なサンダルにリボンのついた麦わら帽子、ふわりとした上品なワンピースにこやかに微笑むきれいなお嬢さんが歩いてくる。顔見知りのご老人に挨拶をする、その瞳の明るい茶色が朝陽そのままに美しく透き通って、彼女の周りには昔の小説から抜け出してきたような優しいオーラがあった。そよ風のようにすれ違う。

思い出したことがある。

大きくなったら、娘さんになったらあんな風な憧れのお姉さんみたいにきれいになる、と女児のころは(ほとんどすべての女児と同じように)共同体幻想からやってくるそういう物語を聞かされて、それを信じていた。…という訳ではないが信じるということもなくなんとなく信じていたのではなかったか、と。

それはいずれ己が老い、死ぬという事態が確実にやってくるのだ、というくらいのリアリティのなさをもった客観性でもって、ということである。蛹から蝶に変身するという革命は、パラダイムの変換は、その時が来れば起こるべくして起こるのではないかと。今の自分にはわからない論理が自身の内側から立ち現れ、「大人になればわかるよ。」というその論理が正しく機能することを、信じる信じないの判断を棚上げし、本当は信じてなどいないという事実の痛みを先延ばしにするためにほんのりと信じていたつもりになっていたのではなかったか。

 

だが、いつからか私は確信していた。
違うのだ。

この感覚は、違うのだ。
きれいになる、という意味にもいろいろあるし、それを言い出すと件の物語に「誤謬がある」、というわけでは決してない。誤謬のある物語などない。誤謬のない物語もまた存在しないように。

だが、この感覚は違う。
それは一昔前には決して共同体共同幻想物語レヴェルでは存在をみとめられることのなかった、したがって名前をもっていなかった昨今のいわゆる「スクールカースト」のように、隠蔽されていながら暗黙に皆が共通に感じているであろう、未だ名前を持たぬ、したがって存在を認められていない感覚。概念として形作られる以前の概念以下というべきもの、確実に存在するのにその形をとらえきれない匂いのようなもどかしい感覚。

そう、生まれが違うのだ。人種が違うのだ、おそらく遺伝子の組成からいって違うのだろう。骨格も筋肉も、ホルモンや脳のつくり、その思考体系も根本からおそらく違う、ああいう人たちは女性性をしなやかに生きることができる、セクシャルな意味でもジェンダーの要素の側面からでも。それは頭の良さの上下の問題ではなく、質的な違いなのだ。次元が異なっている。文字通り生きる世界が違う。

決して疑問に思うことなく抵抗を感じる頃もなく「~なのよ。」「~だわ。」という女言葉のネイティヴであるひとたち。システムに疑念や抵抗や違和感を感じることなくその中でらくらくと呼吸できる人たち。自分の役割をきちんと受け入れその前提の上に前向きに生きることができる人たち。「当然」から出発できるひとたち。カテゴライズされることに誇りすら感じることができる素直で美しいまっすぐな自尊心をも、もちろん彼女らはきちんと持ち合わせているのだ。

居場所のない私とは違うのだ。
己が一体ナニモノなのか一体これはどういうことなのかといちいち考え続けなければならぬ因果を背負った人間とは違うのだ。自家中毒を起こし自滅する輩とは違うのだ。傲慢と自己嫌悪の両極の重圧につぶれる輩とは違うのだ。…そこからしっかりと闘い続ける周りの友人たち、その英雄たちだけが眩いのだけど、今の自分には。

けれど、私はすべての彼らを眺めその物語を愛することができる。排除されているからこそできることがある。

眺め、愛すること、描くこと、残すこと、批評すること。

ウン、きっと。
(信じる者は…)