酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

夏至、文学

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妖しい半月が西の空沈んでくよ、夏至の夜。

…でね、麦酒を浴びてヤナちゃん聴きながら思ったんだけどさ。

オレ文学部だったんだけどさ。

学問っていうのはさ。

何なんだろなって。
(主として賢治のなめとこ山とホモイと漱石のことをぐるぐる考えてたんだけど。)
(何しろホモイがわからなすぎるのだ。だがわからないことが面白いのだ。どうしてホモイはこんな劫罰を受けなければならなかったのか?)(正当な理由はない。)(強いて言えばそれは「実存」、という概念にも関わってくるのかもしれない。)(?)(そうしてどんどんわからなくなる。)(そうしてそれは、何だろう、一種過激な「ほんたう」や「絶対」に対する拘泥という賢治の資質に関わってくるのではないか?天沢退二郎がそれを法華経の過激さに結びつけて考えたように。)(あらゆる交換法則や共同体の規範を超越して破壊して。)(つまりはおこちゃまなのだ。)

 

ということでだな。

思うに、それはだな。

以前は「論理である。」と思ってだな、例えば小説だの詩だのを分析して論理を取り出すことによってその物語が如何にして人の思考パターンに刻み込まれているのかを見出す面白さというかなんというかそういうことだと思っててだな、今でもそうだと思ってるんだがな。

その論理とは何か?ってことで、もうひとつ思いついたんでメモ。

論理を見出すとかダルマを見出す(仏教的なやつね。「法」っていう。「モード」。)

文学部的なアプローチで言うと、それは、個別的な物語、言葉の中に「普遍」を見出すことなのではないかと。

抽象を見出す、論理を見出す、普遍を見出す。個は個であるそのままで普遍である。エゴはエゴのままで仏性そのものである、十界互具は平行線でありながらびりびりとした矛盾のダイナミクスのエナジイを孕み続け共存し続ける。…もしかして、それが歴史と時間を作っている、のかもしれない。

きわめて個別的にして俗な「物語」の、その「俗」を極める、そのアルケーに遡りその人間の原型を探り出そうとする己の中の個別的な脳内ダイヴによって。具体と抽象、パロールとラングの、その関係の中に世界の構造の矛盾と普遍を同時に見出す、(己と世界の関係性の中に野生の思考のフレキシビリティをもった可変としての生命、エナジイを孕んだ普遍という構造を見出すということだ)、その世界像を描く。その(あらゆる理不尽と矛盾の苦しみをあらかじめプログラムされたものとしての)一体感が、すなわち安心感であるとうたいつづける、祈り続ける、そのための。

…楽しくなければ、人生じゃない。ってことなんだよ、要するに。