酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「森へ行きましょう」補遺(おまけ蛇足)

留津が小説家となることの意味についてもう少しあれこれ考えてみたんでおまけ蛇足ね。

前回「森へ行きましょう」レビュで私は本作品における「書くこと」の持つ意味の可能性についてこう書いた。

 *** ***

人生は、生きた世界は、そのまるごとが所詮はRPGの中で皆で演じている物語世界である、というリアリティの欠如の感覚(中略)と書くこと(物語)、のかかわりである。

これは留津が小説家になることと関係している。

「書く」「読む」その「物語行為」によって閉ざされた牢獄としての「たった一つの自己、そしてその人生」「外部の物語によって規定されたアイデンティティ」から救済され解放された、まさにそのこと自体が、反面として己のたったひとつの人生のリアルを失っていった、その「人生の森に閉ざされた一物語の一登場人物として迷い続けている自覚」ことと表裏の関係であることを示している。

直結しているのだ。

超越目線を得ることによって、「書く者」はたった一つの息苦しい人生の牢獄から救済され、解放され、そして逆に言えば、その苦しみのリアルを失うということになる。これは、換言すれば個の枠組み、アイデンティティの崩壊を意味する。分岐する自己の無限の森。個からの解放と個の崩壊。その二重構造の狭間を揺れ動きながら生き続ける、それが「書くこと」の本質を指し示す。この表裏のダイナミクスの構造は、この作品それ自体の、「物語」を考えるための大きなテーマであるといってよいと思う。

 *** ***

この構造からくる留津の気持ちの変化は、本作品の以下の引用箇所に如実に示されているものだ。

p480 夫殺しの瑠通(小説家留津からの分岐)(書かれる者)が己をミステリー小説の中の主人公と感じる非現実感の中で、愛する夫俊郎の死体の処理を続けるシーン。

「自分が、まるで誰かの書いた小説の中の主人公のようだと、瑠通は感じていた。(中略)今自分は、自分の書いた小説の中にいるのかもしれない。/なるほど。これは、小説の中のできごとなのだ。もしかすると、あったかもしれないこと、でも、現実とは異なるできごと。」

瑠通は、ここで大層安心するのだ、そうだ、これは結局誰かの書いている物語の中なのだ、こんな怖いひどいことは取り返しのつかないたった一つの閉ざされた現実なんかじゃない、と、心安かに愛する夫の死体の解体作業を進め、愛する人のその死んだ体のうつくしさに恍惚とする。

これに呼応して留津(書く者)。

p499「小説の中の架空の世界こそ、留津にとってはもっともリアルな手ざわりのある現実であるように思えてしまうのだ。虹子を育てたことも、タキ乃との嫁姑の確執も、俊郎との間のもろもろのゆきちがいも、まるで絵空事のように、今では感じられてしまう。/小説を書いている時、妙な言いかたなのだけど、/「自分は生きていないんじゃないか」/という、不思議な感覚に留津はおそわれることがある。/今書いている小説の中のことが、あまりに色鮮やかに感じられるので、外にいる自分の方が何かの物語の登場人物にすぎなく思えてくるのだ。」

書くことと書かれることの決定的な質的な違い、という境目の感覚が失われ、自我の枠組みは崩壊し、あるいはそれは無限に拡大する。すべての境界線は融解してゆく。憎しみも、愛情も。

所詮現実といわれているのものも、ひとつの、ある文化圏の中である人々が共通に感じている論理の物語性の中に構築されているひとつの約束事に過ぎない、出来事を意味づける一つの誰かの決めた恣意的な論理の中のこと、誰かのかいた物語の論理の中からくみ出された感覚に過ぎない。それならば、どの物語にしたって差異はないのだ。真理、あるいは虚無、この世の外側のマトリックスから人が構築してゆく等質な物語群の一つに過ぎない。物語の森の中。

…それならば。
(これはまったく根拠も説得力もないんだけど、ちょっとした論理ゲームね。)

もし、この「森へ行きましょう」という作品自体が、留津の書いた小説だとしたら、という設定について考えてみたりしまったりするんである。これはただちょっとエキサイティングでスリリングな考えで、思いついたときちょっとわくわくした。最初に出てくるルツが最初の留津の想像した己のもう一つの姿であった、という設定。それを己自身の人生と同じ地平、次元で語ってみせる。あり得た自分、あり得た人々の姿。あらゆる可能性は「現実」と等価である。ここには、キリスト教でいうように実際に殺してなくても殺すことを想像しただけで既にそのひとは殺人者なのだ、という発想と同じ論理がある。

…迷宮の度合いは高くなる。どこが語られる次元でどこが語る次元なのか?夢から夢へ、夢から覚めた夢を見続ける悪夢のように反転し続ける世界。「ここは夢の中だ。お前は私が見ている夢の中の登場人物だ。」と言われて混乱する不思議の国のアリスのように。己の立っている地平自体がぼろぼろと崩れてゆくこの底なしの虚無の恐怖。

どこに覚醒した「ほんとう」の自分がいるのか、「ほんとう」の世界が「現実」の世界と自分があるのか、そしてそもそも現実とは、リアルとは、いったい何なのか。

考え続けなければたやすく他人の物語の牢獄に飲み込まれ権力に飲み込まれ個はぼろきれのように消費される他者のゲームの駒となる。

それは、己が選び感じ構築しつづけなくてはならないもの。「現実」とは、生き方とは、世界の構築作業のスタイルの別名なのだ。

f:id:momong:20180613234438j:plain