酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

栗子さん(命題その3 モンブランは涅槃である)

早春の土曜の朝である。
のどやかな晴天。春ぼらけな青空の下、町はゆるゆるとまどろんでいるようであった。

栗子さんは、駅に向かって歩いていた。人生における誇りについて、すなわちその内実として考えられる要素である自身の存在意義というものを滅びと豊穣という両義の概念として設定する仮定について熱心に考えてながら歩いていたのである。

彼女の本日の目的地は名店の誉れ名高い目白の菓子屋、エーグルドゥースである。モンブランの天啓を得てから早一年、いよいよ誰もが逸品として絶賛する名物の搾りたてモンブランを目指す記念すべき土曜日であった。

思考は穏やかな陽射しに包まれた春の気配の中、なめらかに歩行する。

世代構造は、否、時間構造は一つのトコロテン製造機をモデルとすることができる、と栗子さんは考えた。時間はうまれる。新しい時間と世代が次々と世界に導入されてゆくことによって、古いものは否応なく中央から辺境へと、終末の場へと、その世界の外側へと流され押し出されてゆく。栗子さんは、そのところてんのように若い世代へと取って代わられ終わりゆく世代という構造とその持つ力、意味について、そしてその図式の中に今己が位置している終盤という感覚のリアリティについて、その論理構造をためつすがめつ検証していたのである。

生まれ育ち盛んになり中心となりやがて若い世代にとって代わられ疲弊し枯れ果てただ捨て去られてゆくものとしての個々の世代、個々の人生?

否応なく期待膨らむ名店のモンブランについての思考と並行しながら、その疑問について、否、という方向に向かうイデアを孕む論理を栗子さんは感じ確信しその証明について考えていたのである。

土曜の午前、おぼろな春の陽射しは濃やかな金の粉のように降り注ぎ、柔らかく平和な町と栗子さんを包んでいた。
梅と沈丁花がかわるがわる香っていた。

あるいはそれはモンブラン・クリームを絞り出すモンブラン口金のついた絞り出し装置であっても良い。世界のマトリックスであったクリームのカタマリは絞り出し袋という「世界」、生まれ死すこの物質界の「絞り出し運動」という現象によって最終的に細分化された完成系の美しいラーメン的麺状(モンブランクリームには店のレセピーにより、太麺、細麺、ちぢれ麺その他のヴァリエーションがあるのもラーメンと同様である。)となる。既に生まれ直すことが不可能となった世界の果てのその外側にすべてを統合したモンブランは完成するのである。インテグレーテッド・モンブラン。それは内側を包含しつつもそれら全てからすでに逃れている。かつて絞り出し袋という世界の内側によって夢見られる意味内容であったという記憶を包含しながら、常にそれが失われたところで、そこから逃れたところでのみ成立している決して触れることのできない非在としての存在、矛盾、そして真理としてのモンブラン

仏教系の論理構造の中で言えば。これはパッテーカラットー、永遠の現在。すなわち時間や空間の法則に制限された「世界」の「外側」である涅槃の領域に他ならない。

ということで、命題は以下のように提示される。
モンブランは涅槃である。」

含意すべきことは、彼女はそのとき、世界に満ちるこの光、穏やかでやわらかな春の喜びに浸潤されそれに満たされていた、ということである。ということで、結論はすぐこの光の中に、その正しさによって正しく導き出されてきた。シンプルだ。過去に夢見た無限の未来の中に世界の全ての豊穣がある。永遠に、それは創造されたものだから。それが己が存在したこと、生まれ育てられ生きたこと全てに対する誇りだ、この限られた時代の中に恩寵としての永遠を包含して所有し所有されながら生きた誇り、そしてこの誇りこそが、己が生まれ生き死んだ、その存在の祝福を証明する力なのである。幾度でも幾度でも、永遠にそれは証明され続けなければならない。

 

…と、このあたりで目白に着く。エーグルドゥースはパリの裏通り、古い仏蘭西映画に出てきそうなお洒落さに満ち溢るる外観を呈した店構えのフランス菓子専門店パティスリーであり、名実ともに東京の誇る名店であることに間違いはない。週末午後ともなると店内はラッシュアワーの山手線或いは悪名高き東西線内の人口密度である。すなわち明らかな過密である。

さて実はここではしかし、モンブランモンブランとは呼ばれない。名店の意地を示すため「トルシュオーマロン」というオリジナリティを誇示した商品名を冠せられているのである。

アルプスの山のかたちを模したというmont-blancではなく 、torche aux marrons、栗の松明、炎のかたちをした栗のお菓子の意味(トルシュってのは英語のtorchなんですな。)であるが、この名称は中東部のアルザス地方のほか、主にフランス東部での呼び名である。他の地域でのモンブランと菓子の内実としては同じものである。日本でのモンブランは本家本元パリのアンジェリーナ経由で現存している自由が丘のモンブランが正統な発祥の店だから、ここは名店としてのオリジナリティ、意地を示したところだったのであろうと栗子さんは推察した。

発生当時、日本中で大流行となった苺大福の時流に乗ってそれを拵えながらもあくまでも「苺大福」におもねりきるスタイルをとる屈辱に耐えることができず意固地に「苺餅」という独自の名称にこだわった一筋の心意気、かの名店阿佐ヶ谷うさぎやのようなどこか愛しい意地ではある。トルシュオーマロン。

…順番が来る。
「お待たせしました、ご注文はお決まりでしょうか。」ケーキ屋の女の子というのは大抵とても優しく愛らしくにこにことしている。辛く寂しい日であってもひととき心を温めてくれる陽だまりのような存在なんである。

さて、栗子さんは意志が強い。百花繚乱菓子の世界、美麗なる芸術品の並ぶウィンドウに、一瞬すべての理性をかなぐり捨ててすべてを買い占めたい欲望、就中低温でじっくり焼き上げた栗のクリームに生クリームを絞ったフォンダンオーマロンなどという別口の魅惑的なブツに心揺れつつも、欲望に打ち勝つのだ。己の身体能力と経済能力及び正しいモンブラン美学について冷静に見極めた上で初志貫徹、重々しい口調を以てトルシュオーマロンをオーダーする。

 

その日、柔らかな午後の陽射しに包まれた帰途、栗子さんの感じていた幸福感に関してはことさらに言い立てるまでもないであろう。彼女はその心象の風景の底で、内部になよ竹の輝夜姫を秘めたあの竹のように神秘の光を放つケーキの箱を抱えて帰途を歩く存在としての己を幻視していた。

土台に秘められたサクサクのメレンゲととろりとまろやかなクリーム、繊細なかたちに絞られたマロンストリングスの絶妙のマリアージュを味わうための賞味期限は一時間である。

イムリミットぎりぎりでなんとか珈琲タイムにもちこんだ栗子さんは、高鳴る胸をおさえつつブツにフォークを差し込む。いついかなる時も新鮮な緊張感がほとばしるこの瞬間。

サクリ。メレンゲの砕ける快い音がした。

ひと口ほおばって、栗子さんは目をまるくした。
「…こんなの、初めてー!。(こないだつい観てしまった過保護のカホコさん風)」

 

感激のモンブラン
フォークを入れたら、サクッと音がする素晴らしいさっくりメレンゲ。同じように音のするサクサク具合が自慢のこないだのラブリコチエ(音がしたのはこれが初めてだったので大層感動した。)に比べると、けれど芯のところに少しほろりねっちりの気配。ほろほろと砕けるニュアンスを秘めている。

メレンゲの土台にホイップクリーム、そしてマロンクリームの三層構造。非常にシンプルであるが、これが本当に素晴らしい絶品であった。一口食べてびっくり仰天のレヴェル、ほろりとマロンクリーム、すっと溶けるよに柔らかで優しい生クリーム、さっくりメレンゲの妙なるハーモニー。

「どっからどうしたらこんなに一口でびっくりするよな、でもあくまでも上品で何とも言えない甘くて優しいミルキーでマロンで、でも洗練で、って風味が出るのだろう。栗、クリーム、メレンゲ、香料。それぞれの素朴さの生きた上質な素材を味わうものでありながら総合としてはどれともいえない、素材とは異なる次元の総合芸術としての突出した洗練と調和をもった味わい。ひとくちで「びっくりする」この衝撃。名店とはこのようなものなのか。こんなの初めて、すごい!なんておいしいのでしょう。皆が褒め称えるのがすごいわかった。もう別格である。エーグルドゥース!」

栗子さんのツイート記録である。

 

だが。
ここで明記しなくてはならないことがある。

それは、やはりどこか栗子さんの心の喜び、純粋な消費の楽園の快楽とは異なるレヴェルの地層にあった概念としての美味であったという事実である。薄皮一枚向こう側。分析と論理によってその評価は下されていた。それを喜びとして受け止めていたかというと、…それは、その薄皮一枚のところで危うい。少なくともそれは無垢な喜びと言うことのできないある種の夾雑物を含有していた。客観化、概念化されたもの、小賢しさを孕んだうつろな官能。

涅槃としてのモンブランはここでどう位置付けられるのか。
次回、総括してみよう。

気まぐれに続く。