酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

男子フィギュア・羽生結弦選手

普段まったくスポーツは観ないクチである。

オリンピックにも興味はない。(スポ根は嫌いである。その美学が基本的に嫌いである。極めて不健康だからだ。)(「あしたのジョー」の不健康さを見よ。)(戸塚ヨットスクールとかさ。)(セクハラやパワハラ、イジメ、ドーピングの蔓延、中国の美学纏足を思い出させる生物としての人間の奇形を生む権力構造、精神的土壌がそこにはある。)(美学の衣を着て正当化され隠される浅ましい卑しさや信じられない残虐さ。)(子供の頃は「ドカベン」とか「エースをねらえ!」とかそりゃまあ夢中になりもしたがな。)(美学のためなら死んでもよい、とかそういうのいやである。)(…そういう方が人間として幸せかなとは思ったりもするけど。)(美学に生きる、ということ、そんな風に生物として奇形であるのが人間というものやもしれぬ。究極のイデアとしての肉体美が本来の生物としての肉体の自然の破壊であるかのような。)(しかし基本そういうのって、ファッショや戦争に通じてゆく阿呆ぶりとしての本質を感ずる。)(イヤそういうの好きでやる人はいいんだけど、そいでそれが己だけにとどまるもんであるならばそりゃものすごく尊敬もするんだけど、ただそういうのが周囲のあれこれによって社会的なお手本になるとかがやなんである。)(自己犠牲の強制とかさ、モラハラに通じるんじゃん、って思うんである。)(強者が正しいとか勝ち負けがすべてとかそういう風なのが美学になるのがやなんだろな。)強いて言えばちょっと興味があるのは開会式、国の威信をかけて趣向をこらした豪奢で華やかなショーくらいなものである。

が、さすがに何というか、男子フィギュア羽生選手。
単にみてて美しくて楽しいしな、競技としての緊張感まで合わさってたりして、同じ時代にこの伝説の英雄が、とかあれこれ思ってしまったりしてだな、単に周りの熱が伝染しただけかもしれないけど、やっぱりわくわくと録画視聴してしまったわけですな。

一位から三位までの演技しか見てないし、専門的な技のこともさっぱりわからんのでアナウンス聞いて、はあはあ、これが四回転なんちゃらで…とか頷くばかりである。

が、専門家のような、選手に共振し、身体性を伴ったような深みのある楽しみ方はできなくても、素人には素人なりの、素人でしか見ることのできない「そとづら眺める」的な鑑賞、そして外側から見る時しか見えない、技術面や苦労の水面下、その美学を無視した、人間的なドラマを離れた客観物としてのシンプルな美、そのフォルムやイデア、魂だけを逆にピュアに感動的に感じることができる、という面もあると私は思う。漱石のいう芸術の本質「非人情」とはそういうものではないだろか、とかね。

例えばそれは、国を知らぬものが観光旅行で異国情緒を感じることと、その内面を知るものがその国のトリビアルからトータルまでを生々しく感じることの違いだな。知ってしまうと戻れない。一旦言葉の意味を知ってしまうと純粋に無意味な音韻としての言葉を官能として感じることはもうできない、というような。

 

ということで、まあそういうレヴェルで言わせていただきますとな、…素晴らしかった、うつくしかった。どの選手もそりゃそうなんだけど、違い、ということを考えるとより一層楽しかったんである。

もうこのレヴェルで躍動する身体たちは皆が皆、驚くほど美しく、人体の動きというのがこんなにも小気味よく快いイデアに近くありうるのかと、日常のしがらみを離れた神の領域、芸術、ということを思った。

だけど、やっぱり選手たちには個性が、違いがある。今、羽生選手に金メダルをとらせ、何か他の選手とは違うものにしているものが確かにある気がしたのは何故なんだろうって門外漢としてあれこれ考えちゃったんである。要するに感動しちゃったんであるな、きっと。

人間ドラマやスポ根とは全く離れたとこでね。基本的に実は私としてはあんまり彼個人に、人間としては興味がない。立派過ぎて私には理解ができないのだろうとは思うんだが、基本的に直接話したことのない人間には人間としての興味がないのだ、自分。メディアを経てる情報はだれかのこさえた物語だから。

(大学院のゼミで、学習院の怖い教授に教えてもらった。「TVで選ばれた画像で拵えられた解説で実況中継された野球は既にその試合そのものではない。」と。変な怖い先生だった。「昨今の女の子たちは既にあんみつそのものを食っているのではない、『フルーツティラミスクリームあんみつ』だの『小倉抹茶ばななあんみつ』だのという言語情報を食っているのだ。」とかあのときは理解できなかったけどなんか言いたいことはわかる気がするんだな。バルトの「表徴の帝国」てとこなんだろかねい、とかさ。)

でも本当に素敵で素晴らしいとは思っている、皮肉抜きで。ニュースで伝えられてくる人物像ね。)

まず、センスである。
日本の誇り。対外的にも内輪に対しても、その国、己の生まれた国に対する愛を、誇りをまっすぐに誇らしく打ちあげようとする態度。それは己の容姿を最大限に活かす戦略としても成り立っている。すごい。

ワシは愛国心もなんにももってない人間であるが、それでも、愛国心とか誇りとかって、こういうとこから芽生えるべき美しい愛しいものである、って、なんかね、そういうこと思ったんだな、この国にこうして生まれたことの幸福は、この誇りによって成る、と。そしてそれは、よその国の同じ構造をも尊敬の念をもって認めることのできるナンバーワンよりオンリーワン伊勢丹のコピーに合致したものであったりしたんだな。キレイゴト万歳。

音楽は、陰陽師清明。衣装は、平安貴族の公達の身に着けていたものを思わせるデザイン。振り付け、動きにはたっぷりとその伝統芸能へのリスペクトが満ち溢れ、外国の人にはエキゾチシズムへの憧れを、日本人には、伝統古典芸能への誇りと己自身を含んだ民族としてのルーツへの尊敬と憧れと誇りを掻き立てる。

 二位の宇野昌磨選手と三位、フェルナンデス選手、彼等の演技と比べてみると、その個性は際立つ。

 正直、たっぷりとした豊かな情感、人間ドラマたっぷりはらんだようなラマンチャの男、余裕のあるエンタテイメント性の可能性を考えてゆくと、フェルナンデス選手の方が勝ってるんじゃないかと思った。大人の成熟した男の色気みたいな、ラテン系独特の。(苦手である。)技術的なミス抜かしたら、金銀銅の順番もころんとひっくりかえったんじゃないかしらんとか。(技術的なとこオレにはようわからんかったしな。)

ここがなんというか、お国柄、民族性の個性が露骨に現れてるとこのような気がして、すごくおもしろいと思ったとこなのだ。

これに引き換えくらべると、羽生選手はなんというか、ものすごくストイックなのだ。日本人が本来舞を神の舞、神にささげるために舞っていたという、そういう激しい精神性、聖性を感じさせる。人間ドラマとしてのエンタテイメントではなく。選ばれた曲や演出のせいではもちろんあるんだけど、このポイント、それこそが民俗的な日本人の特性であるんではないかと。

ひたすらに性を越えたところにいる神にささげられた巫女としての少年なのだ、鋭く、危うく、例えて言えば剃刀のような薄く激しく切れ味の鋭い、舞。

氷上を舞う少年神、男神。(そして演技後生贄として捧げられる無数のプー。)神、という言葉は宇野やフェルナンデスにはあてはまらない。宇野昌磨はくらべると、ひたすら技術に勝っている、というような印象を受ける。

…とりあえず、とりいそぎ、熱いうちに。
深夜の酔っ払いなのできっと滅茶苦茶なので、また文章きっと直します。

 

*追記

普段日本に厳しい中国のメディアでも羽生くんは別枠ヒーローみたいだね。(やっぱねえ、基本、こういうとこからじゃなかなあ、草の根世界平和。)中国国営放送の女性解説者は次のような自作の漢詩を詠んだそうな。

容顔如玉 容貌は宝玉のごとく
身姿如松 姿は松のごとく
翩若惊鴻 飛ぶ姿は白鳥のよう
宛若遊竜 まるで竜が遊んでいるようだ

…ファンなのネ。

このいかにも中国的に大仰な比喩表現、神話的ヴィジュアルなびろびろの大風呂敷っぷり、よござんす。なんだろうねい、こういうおセンス。どこまで真面目なんだか計り知れない大陸的感性とでもいうべきか。なんにしろ、日本人的に見れば、ひたすら可笑しくて可笑しくてだけどお見事で、こういうのただ笑っていられればいいなあ、とかさ。

おやすみなさい。