酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

吹奏楽コンサート

姉の職場の吹奏楽サークルのコンサートに誘われた。
素人楽団の内輪な無料発表会コンサートでも、たまに立派なホールにでかけると心持ちとしてはちいと高揚したりする。いかにも晴れがましいお出かけな気分が出て、楽しいのだ。

玄関前まで車でお迎え嬉しいな。(姉は両親より運転うまい。)車内では母と姉とおでかけな三人女子会楽しい楽しい。

近くの大きな公園によって、カフェで軽くランチ。そこでモンブランを発見して心が揺れ異様に執着、ブツを凝視する私を見て、母が哀れを催したのか「おごってあげるから食べなさい、食べきれなかったら三人で食べよう。」などとあたたかい言葉で誘ってくれたが、ぎりぎりのところで踏みとどまった。イベントを重ね過ぎてはいけない。興奮のあまり知恵熱がでる。(モンブランは自分にとって大いなる意味を持った大冒険なイベントなんである。)

…ホール入り口は結界だ。

一歩入ると頭がくらり。世界の風景の色が変わる、この感覚。
内側が外側になる。その形而下の現象を受け取る感覚が、己の内的時空感覚と重なり連動して、よみがえる己の内側の記憶が一瞬にして眼前の世界に広がるのを感じる。それは、その場の「法(ダルマ)」を支配する感覚としての意味となってその場の世界を支配構成する。場の論理

…懐かしいのだ、この雰囲気が。
高校の頃、吹奏楽部だった。あのときの演奏会のことを思い出す。いろいろドラマな日頃の練習の積み重ね、いよいよ本番の緊張感、音楽室や校庭な片隅や、朝や放課後、地道に練習して来た成果が試される、立派なホールの晴れ舞台。高揚感。…仕事の終わった後や週末を全て費やして無理を重ねて来た情熱を持つ素人楽団の方々のドラマを思い、却ってこういう気持ちへの想像、感情共振のわくわく幻想が楽しめるという面もあったりしてね。

チューニング、総員のB♭音がひとつになって響く。そして静寂。

この、最初の一音までのこの緊張感。これがたまらない。
(因みに第一部は「展覧会の絵」だった。)

楽曲に包まれている間だけ立ち上がり開かれる現象空間というのがあるのかもしれない。ビリビリした生命力を孕んで躍動する時空。読書の現場と同じ原理だ。と、私は恍惚としてそこに己の言語空間をシンクロさせ続けていた。

…このときの、湧き上がる心のつぶやきをすべて記録しておきたかった。浮かんでは沈んでゆく音の葉の楽、思考と言の葉の樂。その内外の統合体として世界と一体化する己を感じる。

そうして、このままこの空間のまま、核爆弾がここに堕ちて、一瞬で世界が滅んでしまえばいいな、なんてことを考えていた。そうしたら永遠にここに生きているような気がするんじゃないか、っていう、そういう非日常芸術空間。イデアを創造するミメーシス、その祈りとしての儀式、芸術という構造。現象している間だけ実在する永遠の生命。

上がりきらないトランペットの音程も、微妙にずれて響いてしまったティンパニも、ときに気になるけど、それの完璧版を脳内にイデアとして補いながら、私の意識は演奏者へと飛んでゆく。彼等の身体に響くその身体性としての音が、その個が個でありつつ全体としてのハーモニーへと奉仕してゆく構造に、己が演奏しているその音が己を動かしている、その、支配被支配の構造に溶け合うようにして共振する。

これだ、西田幾多郎の「つつみ、つつまれる」関係性。あの理論の幸福とうつくしさのことを思った。

…まあね、そんなに集中力は持たないし、やっぱり興ざめしてしてしまう完全に練習不足な手抜き曲を感じると辛い。ちいとアンコール曲は辛かった。

ホールを出たときの感覚も好きだ。ぼうっとした頭のまま外界に戻って行く、表はまだ明るい冬の午後の陽射し、日曜日の公園。

ありがとね、お姉ちゃん。
やっぱりモンブランも食べとけばよかったかな。