酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

図書館環境・読書の現場

基本、図書館フリークなので、あちこちの図書館に出没する。

カフェでも図書館でもおんなじなんだけど、空間の雰囲気ってのは、建物や設備環境はもちろんそうなんだけど、それだけじゃなくて、寧ろスタッフが仕事を楽しんでるかどうかで決まってくるんじゃないかな。その個性に快さ、シンパシーを感じると、幸せな気持ちになるんである。ほどよい距離感ってのも含めてね。

…(隣町図書館)この図書館には随所に季節折々のフェルト細工が飾ってある。スタッフの方の作品なそうな。どこの図書館も必ず子供コーナーにぬいぐるみだの何だの小さな濃やかな心遣いがあって、それが特集図書のセレクトとかと同じようにその館ごとの個性になってたりする。これが心楽しいものなのだ。

図書館フリークだから、あちこちの特集のやり方やディスプレイ、子供コーナーの工夫の仕方なんかを比べて見て回る。うむうむ。楽しい。子供コーナーの本棚周辺のあちこちには、大体手作り感あふれてるいい味の人形やぬいぐるみやなんかが飾ってある。こういうのは大抵、知り合いのお母さんだの常連さんだののスタッフ周辺の方々の手作りのものらしい。

こういうとこって、無個性、無機的な対応になりがちな公立図書館で、スタッフ自身が仕事を楽しんでいい図書館にしたいないいい仕事したいなとか子供に楽しんでほしいな、というような心遣いをビシバシ感じてしまうスキマ空間なんである。で、こういう風景って子供の心のどっかに一生モノとして焼き付いてるんじゃないかって思うんだな。

絵本が、テクストと絵のコラボレーションとして成り立ち、脳内でそのコラボ・ヴィジョンがひとつのイコンとして不可分のものとなってしまうように、その本を読んだ、選んだ、一連の出会いの場の統合された風景のイメージは、作品内容それ自体に付随してそのとき感情とともに総合的なゲシュタルトを構成する。そしてそれは総合的な一塊の記憶となって分かちがたくその子とその本の関係性を決定するものとなり、ひいてはその子の一生を左右する心象風景として人生の通奏低音を奏でるものともなりうるのだ。

…ナラトロジー、物語論においては、「読書の現場」(語りの現場)、という概念がある。

大昔のことで、いくら探しても再発見できないでいるのだが、確かジュネットロラン・バルトではなかったか。ものすごく印象に残っている一節がある。

何かの章の出だし、見開きで、右側が白紙で左側の頁の、章のタイトルの後の、その書き出しの部分であった。そのページの色と本の感触と文字の風景まで脳に刻み込まれているのに、現物に再会できないというのもなんとももどかしい。

でも、もしかしてその本の風景は脳内で捏造或いは編成された記憶なのかもしれない。読書の現場、というようなテーマだったのだと思うのだけど。(アテにならない。)(まさにこのテーマに関わる読書の現場とその記憶のことを私は今ここで述べているのだ。→テクスト、視覚的な文字そのものとしての物質的スタイルを取った記号シニフィアンとそれが意味するものである内実としてのシニフィエ、さらにそれが読者に読み込まれたとき生まれる意味空間「現場」の関係性のことを、例示として。)

…読書の現場の本質とは、物語(意味)内容に没入しているレヴェルからふと頭をあげて、己の身体が属している世界に戻り、目の前の窓のレースのカーテンから光と風が射しこんできているのを眺める、その風景の二重性にあるのではないか、というような。ここでその「読書の現場」の多重構造を孕んだ世界の複合された総体性そのものが、その読者の個的な記憶として物語内容、意味内容という焦点化された「概念」に見えないプラスαという形で付随されるものとなる。漱石の文学論でいう(F+f)のfの要素であり、ゲシュタルト理論で言う要素プラスαの振幅への可能性をひらく構造である。

そしてさらに言えば、そのプラスαとはすべてからの解放という意味での世界の多様性の可能性そのものであり、イデアの指標となるものなのではないかと私は考えている。(それ自体は虚無としてのイデア、というべきなのかもしれないけどね。)


…ということで、物質としての本と出会いとしての現場環境は、読者のそのときの意味内容受けいれ能力(その受動器のコンディション)に関連した、純粋な運であり縁である。そしてそれは良書との出会いに関して得てして決定的に重要な要素である。

出来得れば、その出会いは幸福な色をした記憶の光に包まれたものであってほしい。
あらゆる資本やいかなる権力からも無条件に守られた牙城としての、その想像力の解放と精神と魂の自由を保障された図書館環境。(それは文字通り図書館であってもいいし、比喩的な意味のものでよい。絶対的な無条件の愛と贈与、祈りと希望に守られた感覚、両親から贈られたクリスマスプレゼントの児童文学全集を開くときの、その冬休みの初日の、夕食前の自室のひだまりのひとときであってもよい。)書を愛するスタッフの心遣いに読書環境を包まれた、明るく暖かい、守護された安全地帯、図書館空間。

意味内容に何らかの能動的な感情が伴われるならば、それはその論理の外に一つの見えない細胞壁を構築する。内容に活力を、ダイナミクスを加え、しなやかな思考の力を活性化させ、同時に外的で不適なるもの、損なおうとする虚無と害意に基づく反論のための反論の濁った理論を鋭く察知し、これをまっすぐな正しく明るい論理の地平のもとにさらけ出す、自在で透明な防御壁となるために。すべての個々に秘められた知の力が暗く滞り濁ることのないように。

その、己の外側にあった読書の現場空間とは、読書体験によって個の内側に取り込まれ、内と外の区別のない知の魂の場所としての心象風景を形成し、その一生を支えるものとなるだろう。いつでも解放されたその時空の精神の記憶が呼び起こされその確かな存在が永遠に保証されるように。

言ってしまおう。
これは主体が抱く、世界に対する感情の基盤が肯定と愛であるべきであるとする理論である。

まあ要するにだな、言いたいことはだな、世の中、
「愛だろ、愛。」。