酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

銀河鉄道

なんかね、芥川賞直木賞も賢治つながりな感じで、なんかね、…なんかなあ。(あんまり嬉しがっていない。)とりあえず読む気しないな。多分ただ今読む気力がないだけなんだと思うけど。

 

でね、さっきなんかずっとザネリのこと考えててさ、ジョバンニとザネリとカムパネルラのことね。

考えててさ。

 

…ザネリねえ。

とりあえずね、

 

1.やなやつ

2.やなやつ

3.4なし

5やなやつ

 

なんだけど。

ジョバンニにとって、彼は世の不条理そのものだったんだろな、なんて思ったんだな。理不尽、不条理。貧しさ、その閉鎖的農村社会の不幸からくる日常の小さな小さな小さな浅ましさ、卑しく貧しい心根、衆愚、蒙昧からくる妬み嫉み悪意。そのひとの罪ではないところからくるその人の罪になってしまうもの。そういう人間の側面。ゲマインシャフトの悪しき面、といったところだろうか。恩愛に縛られるというその枷の両義性からくるもの。逃れられない…まあ要するに不条理なんだな。

それらの「力」を蒙昧や衆愚として軽蔑と嫌悪を向ける意識はジョバンニのこの悔しまぎれの科白の中にも表出されている。

「ぼくがなんにもしないのにあんなことを云うのはザネリがばかなからだ。」

(けれどそれが共同体の大きな力となって、そのかなしい蒙昧と卑しさが、衆愚という「力」となって、己の外の広い世界へと向かおうとする、個人の、まっすぐさやうつくしい楽しい夢や希望をも穢すことへの激しい怒りに似たもの。けれど己自身の存在が、もともとその不条理によって成立しているということへの、その原罪への耐え難さ。自己犠牲や焼身幻想への衝動という方向性をもつそのエゴイスティックでかなしい無辜への希求。)

とりあえずその外部不条理の象徴が、ザネリなんじゃないかな、と。

そうして、ザネリを救うためにジョバンニの最愛の正しく優しくまっとうな理想の友人カムパネルラ、己の理想の側の半身である「共に行く者」が犠牲になる、というストーリーの意味を。その若き日の己の「喪失」を抱えて初めてまっすぐに現実に向かって理想を生きる覚悟を得られるのだと説く論理、そのストーリーの意味を。虚無、喪失、決して得られないものでありながら求め続けなければならないものとしての真理(カムパネルラ)を果てなく望みながら生きることの覚悟を説くようなストーリーの意味を。そこに逆説的に浮かび上がる「救済」というテーマの意味を。(求めながら生きる意味の、それ自体の中に初めて構成されるものである救済と恩寵…至福という「知」の究極の意味するところを。)

 

…ああ、本当に。賢治作品すべてに瀰漫するこの激しい思い、テーマは、「救済」なのだな、と、このうつくしくいたましく見事な物語構成のうちに、痛いほどに激しく感じる。(まあそんなこといったら、いやしくも文学、と呼ばれるべきものであったらテーマはすべてここに収れんするのかもしれないとも思うけど。)

 

いやね、個人的に非常にあれこれ追いつめられてましてな、現実を生きる心身の力にかけてるもんでね。「男は、強くなければ生きられない。優しくなければ生きていく資格がない。」ってCMコピーが好きだったんだけど、オレは生きるための強さも優しさも持たずにここまで来てしまった。優しいひとたちに支えられ過ぎていたのかもしれない。

ザネリの存在に耐えられない。

とりあえずまだ死ぬのが怖すぎる。やりたいこと精一杯まだやりたい。自分では煩悩や執着をまだ断ち切る境地に至れない。とことん汚くなって堕ちて堕ちて堕ちて。ああもうどうでもいいなあ、やりたい放題やったなあってストンと抜け落ちた、そんなところに行きついてからすうっと終わりたいなあ、なんて思ったんだよ。生きてきたことの証明に、考えたことや楽しい物語たくさん書き残して、読みたいものこころおきなく読んで、誰にも脅かされず、そんな時空間をもう一度、幼いころのあの黄金の無時間の中に、もう一度。それにつつまれたまま。

酒ばかり飲んでそのままいなくなってしまってもいいんだけど。

とりあえず今日に感謝。明日の楽しいことだけ考えて

おやすみなさい世界。