酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

栗子さん・プロローグ

栗子(リツコ)さんは、栗が好きである。
ケーキのチョイスはモンブラン

が、体質のため、成人したころからケーキ類全般、食べられなくなってしまっていた。身体の組成も大分変化し、今はもう大丈夫なのではと言われているが、数十年も食べていなかったため、口にすることに対して大変心理的ハードルが高くなってしまった。それが食べ物であるという認識がなされないのである。思考回路の分断が成立してしまったのだ。で、まあ、摂取しなければ死ぬという類のものでもないので、ずるずるとひとかけらも口にすることなく数十年が過ぎてしまった。

が、ある日ハタと思い至った。このまま一生あの華麗にして深遠なスイーツの世界に遊ぶことなく一生を終えることになるのか、自分、と。あの夢のような世界を。

大概の子供がそうであるように、栗子さんは甘いおやつが大好きな女児であった。お土産のケーキの箱を開けるときの心のときめきは一生を運命づけるほどの甘くあたたかい至福の時間の累積記憶を形成した。それはかけがえのない財産である。

母がケーキを拵える際には、なみなみならぬ真剣さをもって菓子ができあがるさまを観察しそのミラクルな現象に驚嘆の眼をむいた。幸せクリームな卵色、粉、砂糖、ナッツに蜂蜜、練る、混ぜる、泡立てる、重ねる、冷やす、そしてオーブンにおける魔法のような焼成過程…原料の化合のプロセスに従って次々と現れる世にも美しい色彩と質感のそのけざやかなる美的化学的変化。その甘やかな香り。普段ナマケモノの権化であった女児栗子も、この時だけはいそいそと手伝いにいそしんだ。(ボウルを押さえたリ器具を渡したり、その程度だが。)生クリームを泡立てたあとのボウルを洗う前に奪い取るようにして抱え込み、きれいにすくいとってなめるのが楽しみであった。身体を壊して療養所に入り、おやつに不自由した時期には、夜な夜なチョコレートの国の夢をみたものだ。女児とは概してかようなおやつ大魔王なるものである。

 

…さて時は師走、既にその半ばも過ぎた。風景はそろそろ年末年始の独特の風情を帯びはじめている。

関東年末年始においてそれは、やたらと眩しいきらきらの青空カラカラの空っ風、吹きすさぶ北風小僧の勘太郎である。「正月みたいな空」とはすなわち、快晴特異日非日常且つ非常識な異世界レヴェルにあるもの、人から日常の音のリアルをすべて奪う暴力的に激しい静寂に包まれて、ぽかりと開けたお正月空間の金色に輝く青空のことである。

初詣に誘う神社のポスター、歳末セールの張り紙。だが派手やかな色遣いも生活のためのあざとい商売ッ気も何もかも、街の風景すべては遠大な初冬の淡く透き通るような光に静かにまぶされ遠く懐かしく眺める記憶の風景に見えた。わずかに残った裸木を縁取る銀杏の黄金の光がほとりと落ちる。風に吹き上げられ、きらきらと舞う。

すべては愛おしい。それはただ人々の生活全体をひたすら幸あるものと思わせる遠い別世界のカプセルの中のようだった。

同じように、この風景の金色の光の粉に己の姿を縁取られ包み込まれ行き交う人びとの風景。光に縁どられ、半ばその光に溶かされている。ひとり、葱の束を抱えよちよちと歩くおじいさんなどとすれ違いながら、今この世界に包まれている奇跡と不思議を感じ、栗子さんは突然幸せになった。その遠い風景の中に幸福という物語の意味を見出したように思った。この限られた世界は今、限りなく繰り返す年月の流れの中で、穏やかに年末を迎え年始の準備をしようとする街の不思議な静けさと華やぎの中にあった。一冊の絵本の中でひととき開かれた一頁の中の風景のようであった。…その平和のことを大層貴重で愛おしくかけがえのないものと感じたのだ。栗子さんはそのとき、激しく強く、心の底から世界の平和を願った。

そしてこの明るい風景の先の隣町には、レ・アントルメのモンブランがあるのだということなどを考えたのである。

 

だが今日のターゲットはそれではない。向かうのは逆方向である。

…目の前の風景、頭の中の風景を混ぜ合わせながらふわふわと歩いてゆくと駅に着く。明るい冬の陽射しの中で栗子さんはずっと、嘗て幸福であったときの、さまざまの己の人生のシーンを思いながら歩いていた。

駅に着けばまた風景が変わる。繋がる場所も変わる。栗子さんは、それを楽しがりながら真昼の明るい電車に乗りこんで、ゴトンゴトンと揺られていく。彼女はまだ幸福なままだ。

  ***  ***  ***

栗子さんは栗が好きなのだ。

秋になると、栗への思いは尋常ならぬ激しさをもって彼女の心を支配する。あたかも熱病に冒されたごとく。そして西暦2017、今年は特にモンブランへとその指標が焦点化された。これは先に述べたように、嘗て己から理不尽にも失われた幸福な菓子の世界を、その過去から未来へ向けて取り戻そうという人生の大冒険である。

 

週末になると幻想第四次鉄道TOKYO・中央線に乗り込んで、百花繚乱モンブランワールドへと彼女は向かう。

秋が巡り、無花果と栗の季節が街に巡ってくる、そこに平和が続く限り、おそらく。
彼女において「モンブラン=この街に菓子類の享楽文化があふれている証左=このちいさな世の中における平和の証明」なのであり、栗子さんはこれを三段論法的に応用した形として「モンブラン=世界平和へとつながる象徴」という図式に変換し真理として存在させしめている。この根拠こそが、彼女が今この行為を以て今日を生きるためのよすがであるといえよう。

この世界平和を追うために、幸福という真理を読み解くために、彼女は今日もひたすらモンブランを求めて歩くのだ。

(気まぐれに続く)