酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

死ぬということが。(世界の始まり・ナルニア国物語)

早朝、半ば目覚め、半ば眠りの中に置かれているとき。まだ目を開くことはなく、意識は目覚めつつある、そのときのことだ。

さまざまな思考が際限なく湧き出でて意識野を駆け巡る、論理が構築されたかと思うと破壊され、それはまたよりうつくしいかたちに再構築されてゆく。無限に深く広がってゆく世界構成を繰り返しながらたくさんのかんがえが一面に跋扈する。きらびやかなさまざまなかんがえの万華鏡の中に恍惚と遊んでいる。

ぐるぐると自在に駆け回る。面白いように考えが湧いて出るのがこのときで、恐ろしい絶望に捕まるのもこのときだ。

夜から昼へ、無から有へ、眠りから覚醒へ。始まりのとき、けれど完全に取り込まれる前のとき。まだ意識は多層で不安定で不定形、アイデンティティは時空に捕らわれきっていない。

…中学から大学まで、人生の、青春時代のコアを住んでいた阿佐ヶ谷の家、うっそうとした庭に囲まれた古い古い家屋。あの家の二階の部屋での目覚めの早朝、あのときのことをよく思い出す。秋である。るうるうと湧き出だすような虫の声のやわらかな海の中を浮上して覚醒していった。その、意識の変遷を私は愛した。無から有へと生まれてゆくとき。確かにあの時わたしはあらゆる世界と思考に通じていたから。

突然閃くようにして新しい論理の地平が開かれる。卒論や修論に行き詰ったときも、あれこれぐずぐず思い悩んでいた時も、さまざまな新しい考えがあぶくのようにぽかぽかと夢のあわいから次々生まれてきて、すべては有機交流電燈としてつながりほのかに明るみ明滅し、うつくしい世界の無限に自在な調和をしめしだしてくれた。

それはなんというか、至福の、あらゆるところに通じたメディアの時空であった。あらゆる世界の現象と論理に。それは、或いは、図書館。

今でも思い出す。阿佐ヶ谷の二階の私の部屋の、夏から秋にかけてのいくつもの朝が重なった風景。
深夜から早朝へのひととき、最初の小鳥が鳴きだすか鳴きださないかのとき、昧爽の私はまだ目を開いていないのに、意識はある。意識は眠る私をどこかから鳥瞰している、読者の目だ。

夜通し鳴き通したはずの虫の声がるうるうといきなり意識の前面に大きくせりあがり湧きあがってきて、わたしを包み、私は寂しく美しい音の雲に包まれて浮遊する感覚を得る。浮き上がってゆく、天井の方まで。

幽体離脱の感覚ってこういうのだな、などと考えている。

死ぬというのがこういう感覚ならば、本当に、この世に何にも恐れることはない。
あの至福の時空に戻るだけなんだ。あかるい、死から再生の可能性にみちたメディアの場所に。

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C.S.ルイスの「ナルニア国物語」で、創造主アスランが、世界の始まりの歌を歌うシーンがある。

(ルイスはバリバリのクリスチャンで、あのシリーズはキリスト教の伝道あるいは洗脳童話であるという批判もされているくらいなんで、まあアスランキリスト教的な創造主イメージであると考えてよい。)

ナルニア国物語シリーズはひとつの世界の創世から滅亡までをうたった壮大な物語なんだが、その万物創世、始まりのときのシーン。

創造主の歌の響く間、その特別の「始まりのとき」のあいだ、万物ははじまり生まれ育つ生命の黎明期にある。多分創世記のあの七日間のイメージに重なるものだ。何もかもが生まれ育つ躍動に満ちた素晴らしい情景描写は圧巻だ。

で、それを思い出すのだ。始まり、終わる。そして、永遠が始まる壮大な一連の物語の全てを繋ぐものである、洋服ダンスの扉の向こう側に開かれた、あの霧の中の、あのメディアの時空、あの不思議で壮麗なシーン。不安定で不定形で、始まりの予感に、その歌声に、エナジイに満ち満ちたあのシーン。死と再生がすべてひとつの物語の中にあり、それはそのメディアの空間に繋がったものである。既に死を孕みながら再生への希望と喜びを孕んだ両義の場所。過去と未来をすべてインテグレードした四次元的時空だ。そしてメディアの場所。

 

死ぬということが、だから、あの無からの始まりにつながる物語のイメージとして捕らえられるものであるならば、ということなのだ、つまりね。

このシーンは個人的に随分思い入れがあるんだな。(いやまあナルニア国物語は随所に思い入れがあるんだけど。)ここでも触れてた。三好達治の詩の記事のときだな。