酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

絶望と至福が。(いろいろ改訂版)

絶望と至福がこんな風に交互に極端にやってくるのではまいってしまう。
家の中でイマココに取り込まれ組み込まれ、戻る場所も行き場所もなく逃げることすらできずこの先に希望はない、と絶望していたはずなのに、外に出てひとりになったとたん、懐かしい街の思い出の中に解き放たれた瞬間、ふわりと呼吸が楽になって、これ以上ないほどの幸福感に満たされることができたりする。

まったくねえ。
血圧だって血糖値だって躁鬱だって、とにかく数値の乱高下は一番健康に悪いのだよ。

…で。

ふと、もしかしてこれは本来一つのものなのかもしれない、という考えが浮かぶ
至福と絶望の、この感覚が。感情が、精神が、魂が、その情動のかたちというものが。

表裏、ということか。
そうかもしれない、だがやっぱり違うような気もする。

…そうだ、ウン、これは全然違う。表裏ではない、多層なのだ、世界の基本は。十界互具。

熱いエネルギー、ただ純粋な「過剰」の塊に、周囲の風景が色や形を、名前を、意味を、物語を与える。それが、その論理が、その論理自身の内側の世界と共に、その外側のカオスの意味をも決定づけてゆく、レッテルを張りひとつの論理の中に色付けしてゆく。その数だけ世界ができる。無限の多元宇宙。

外側はカオス、名のないところ、虚無でありマトリックスである。それは安全な論理の世界の内側、コスモス界から見ればいみじい至福と恐怖の対象であり、すなわち至高と解放と恐怖である。日常コスモスは安全でわかる。だから隙間がない。エントロピーは増大し、滅ぶもの。歪み閉ざされ閉塞し疲弊し腐るもの。全体性を本来とする個人のトータルを押し込める理不尽となり絶望を呼ぶ。

ということで、民俗的知恵としての祝祭サイクル論理がある。

ケ(日常)はケがれ、ハレとして外部との祝祭空間をもち再生するサイクルをもつ。宗教的儀式はその役割を担っている。要するに、外部と内部の関係を管理するメディア機能をもっているのだ。

日常のコモンセンス、つまり「管理」から外れた変態的嗜好、痛みと快楽の区別がつかない、ひとつのものであるところにあるという奇妙な感覚の成立する基盤とそれはまったく構造を同じくしている、おそらく。…にんげんがこわれるとき、せかいのわくぐみがこれれるとき。そんな「外部」、そんなところに通じてゆく異形の力。その境界線に位置している、激しい場所。至福と解放、そして虚無の絶望、恐怖という「過剰」。怖れながら惹きよせられてゆく不思議なところ。世界の層の隙間のことである。

それを、その隙間に陥らないようにくびきをつけてコントロールする知恵が日常であり物語なのだ、おそらく。例えば宗教はその知恵を操ってバランスを取ろうとするツールである。その「日常」の物語、絶望と虚無を避け、至高を創造するための物語の機能、位置づけ。日常はまた至高と絶望、宗教の持つ飴と鞭の知恵によってコントロールされるものとなる。包み、包まれるもの。たやすく陥ってもいけないし閉ざされ失われてもいけない生命のダイナミクスそのもの。

とにかくね、自分の今を信用しないことが一番の原理だ。神の死んだ後、この現世を生きる智慧としては。

一つの層に閉じ込められないこと、…もちろんそんなの凡人には無理だ、けど、閉じ込められたときはその集合知(宗教的なるもの、哲学的なるもの、或いは、芸術的なるもの)が、論理としてその外側を教えようとしてくれる。自分を信用するな、すがれ、と、そのめくらめっぽうな手段をとって道標を示してくれる。それだけのことだ。それはメタ認知と呼んでもいいし、読者の視線といってもいいもの。

今までの人生を否定するような絶望を信じない。それは、その限られた時空の、限られた層のおいてのみ成り立っている。喉元にある熱さである。それは喉元をいつか過ぎるものとしてある。いくら逃れてもまたいつでも襲ってくるものだけど。

いつでもそれは反転するものだということをどこか意識のなかに、呪文のように設置しておかなくてはならない。理解できなくても、呪文のように、お守りのように、安全弁のようにしてもっていなくてはならない。

 

…宗教が、欲しいよオレ。
信じたいんだな、絶対のセーフティネットなところを。