酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

東京駅。成田空港

ターミナル駅が好きだ。…いや、東京駅が好きだ。

中央線で武蔵野から東京駅へと向かう。車窓にお濠を見る頃になると、毎回私は新鮮にわくわくしてくる。神田を越えると、いつも遠く小さく見える風景が突如視界の中でぐうんと巨大化し、聳えるビルとなって現前する。そこに否応なく飲み込まれる感覚が好きだ。TVのニュース画面なんかで見る鳥瞰されたジオラマみたいな都市の記号としての風景じゃない、その内部の夢のリアルに吸い込まれ、ありんこみたいにちっぽけになってゆく自分。集合意識の中で見られた幻想、この大都会の夢の中に溶けてゆく。

外側から見る者から内側から見る者への転身。
己が「包まれている」ことを見るのだ。

(少しだけ、意識の変容を遊ぶ。自分が誰かの夢の中に生きている幻であるかのような気がしてくる。どちらが夢で誰が現実なのか、本当は誰にもわかりはしない。…これは鏡の国のアリス胡蝶の夢の無意味な問答の命題だ。目が覚めたら世界が滅びた後の廃墟なのかもしれない。)

なぜだろう、この、取るに足らない塵芥になってゆく、誰にも気にされない問題にならない支配されも裁かれもしない、誰も支配しないでいい、裁きもしないでいい、ナンデモナイモノになってゆく、空気のように無意味な存在、あるいは純粋な意識、純粋な主体となるような、世界そのものに溶けてゆく、還ってゆくような、…この、ほっとするようなアイデンティティ崩壊に似た感覚。無感覚と感覚の狭間におちこんでゆく夢の中の安らかさ。ただただ、自由だ。

これは、大自然の風景であってはならない。あれは、本当の恐怖だ。狭間ではない、完璧な無の側、その虚無の恐怖。全くの同一に還ってしまう。自分はゼロになる。痕跡すら残らない。全く別の時空の論理。完全な無。

私は恐怖する、あまりにも雄大な自然の風景、あまりにも強烈な美しさには凍るような寂しさと恐怖を感ずる。前人未踏の霊峰の、或いは宇宙から地球を眺めた空恐ろしい美しさよりも、高層ビルにものすごく光る夕陽の最後の一片。里の春の菜の花畑の夕暮れ、住宅街の駅前商店街の黄昏時の夕空の光の色に包まれた雑踏の賑わい、その半端さが好きなのだ、自然との狭間の、黄昏時、逢魔が時。危ういそのがけっぷちに立つのが楽しいのだ。終わりとはじまりの場所。

向こう側に解体されつくされ、魅了されつくしたら本当に虚無に帰ってしまいそうで怖いのだ。実際その場所に立ってしまったら、私はきっと呑まれてしまうんだろうなと思う。寧ろうっとりと。それがひとつの正しい死のありかたなのかもしれないと思う。

人間界の夢はもう少し有に近い、有と無の、存在と非存在の狭間にある。アルケーである。

さて逸れた。これは、大都会の高層ビル群に飲み込まれるときの気持ち。駅はまたそれとは違う別物、今の「飲み込まれ感覚」と関係はあるけど、また異なる意味の次元に根差した特別なもの。

それは明確に、旅人たちの行き交うメディアの場所なのだ。
これは空港にもまた、というかより一層こっちの方に顕著なことなんだけど。

…ああ成田空港、行きたい。どこかへぽーんと行ってしまうときの非日常への解放の入り口、境界。行き交うドラマや人生のワンシーンのリアルに立ち会っている、そのチャンネルをザッピングしている、図書館の書棚の狭間にいるような気持ちになる。ここは、あらゆる世界の多様に開かれたその可能性そのもの、メディアとしての場所。その空気の色、匂い、終わりとはじまりの気持ち、旅立ちのときのその永遠に空っぽな可能性のエナジイだけに満ちた時空を私は恋う。

…この感覚でいつも思い出すのは、春樹の「色彩を持たない多崎つくる~」なんだよなア。

駅のホーム、そこに行き交う無数の人生の、その雑踏に流れの中にただ存在するだけという感覚を己の存在意義のように見出し、そこにこだわる多崎つくるの意味。あれは「騎士団長殺し」よりよほど面白かった、気がする。いや、わかりやすいのだ。説得力もある。「女のいない男たち」もそうだ。たくさんのモチーフがテーマとしてきれいに符号を合わせるように打ち出されている。読み進めてゆくうちにパーツがハマってゆく、じわりと浮き上がってくる論理、その風景、意味。「騎士団長殺し」は結構な大長編だから、中編のこの二つと違ってきれいなテーマとして打ち出しにくいってのはもちろんあるだろうけど。(そう考えると、同じく同レヴェルの大長編である1Q84やねじまき鳥はすごいんだなってことになる。)


なぜ自分がちっぽけであること、誰にも気にされないこと、塵芥のような存在となることにほっとするのだろう、自由と解放は己の内部への沈潜とミクロの中に反転し開かれる超越されたマクロ、その同時性の眩暈、その矛盾のダイナミクスの中にのみ存在しうる。

そうだ、それは日常と同時に多様な要素からなるアイデンティティからも解放される感覚。その風景から、その時空から。だけどそれは両義のもの。手放すとき解放され、取り戻すとほっとする。己のレッテル。アイデンティティ。(これは迷子の楽しみだ。心細さと背中合わせ。本当に帰りつけないとき、個は永遠の夕暮れの寂しさの中に解体されてしまう。黄昏の、逢魔が時の、その「魔」に、「向こう側」にのみこまれる。)

半ば飲み込まれながら生きた旅人たちが、おそらく山頭火とかね、ああいうひとたちだったんじゃないかなあ。発し続けていないと解体されてしまう、ギリギリの縁を危うく生き続けた詩人たち。

賢治の「風景とオルゴール(春と修羅)」には次のような風景描写がある。

黒曜こくやうひのきやサイプレスの中を
一疋の馬がゆっくりやってくる
ひとりの農夫が乗ってゐる
もちろん農夫はからだ半分ぐらゐ
だちやそこらの銀のアトムに溶け
またじぶんでも溶けてもいいとおもひながら
あたまの大きな曖昧な馬といっしょにゆっくりくる

風景(世界)と不可分になる、明け渡してゆくにんげんのその恍惚のスタイルを、「演じる」ことや「己を限る」こととその外側を感じることの恍惚として、「半分溶ける」ことへの感覚を謳いあげた、これは「論理の言葉」でもあるような気がする。