酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

携帯電話と蛇男

携帯電話の液晶画面に映りこんだ青空と雲がいやにリアルだった。僕は上を見上げ青空を確認した。
(携帯電話はいわゆるスマート・フォンである。触れるとなめらかに変化したり拡大縮小したりする美しい液晶画面を見るごとに、魔法をかけられたガラス窓だと僕は思う。向こう側には無限が隠されている、手の中の宇宙。)

…何処かおかしい。
頭上にある空と雲の配置とはあきらかに違うのだ。じっと眺める。すると、僕が怪しんでることに気が付いたらしい画面が、一瞬慌てたように震えたかと思うと、そのうち映っているフリをやめ、勝手にぐるぐると渦巻きはじめた。渦巻きながら青空は暮れはじめ、銅を溶鉱炉で溶かしたような夕暮れが、ものすごい金色のグラデーションを描いて輝いた。とろけて渦巻く黄金の中で金色の雲の影はぼろぼろとくらく輝きながら燃え焦げ焼け落ち、プルシャン・ブルーから濃い藍色、明るい真っ青な夕空のグラデーションを描いて、画面は早回しにとっぷりと暮れていった。

小さな画面の中に吸い込まれ、短く豪奢な夕暮れのショーに見とれていた僕ははっと目を上げた。

木漏れ日が緑金に滴りおちて金の影がゆれ、青空に真っ白な雲がぽかりと輝く真昼である。
そして木洩れ陽と鳩がまだらに埋まったハンカチの木の影が、一瞬揺れたかと思うと、そこから女の子が出てくる。

女の子?

「返して!蛇男が来ちゃうじゃないの!」

蛇男?

「…ええと、何を?…ええと、君は誰?」
「○○に決まってるじゃないの!あたしはミュウよ。」

○○がよく聞き取れなかった。日本語じゃないんじゃないか。いや、音声ではなかったような気もする。
女の子は金茶の髪の毛をふわりと振り立てて梢から飛び降りた。三階建てのビルディングほどの大木である。

光に透けるとやわらかな桃色をおびて光る髪、不思議なお日さまみたいな色が残像の尾を引いた。

北極のオーロラを孕んだ太陽はこんな風な色なんじゃないだろうかとぼんやり考えた。瞳の色は濃い琥珀。古代の昆虫が閉じ込められているような、上等の琥珀。人種がよくわからない。というか人間かどうかわからない。羽化したての蝉。生まれたての。と、口の中で呟く。その存在は、威勢のいい言葉とは裏腹の、ひどく頼りないやわらかな透明感だった。

日の光が凝ったようだ、と僕は白昼夢を思った。そして白昼夢というのはよくあることなのだ。

「あなたが磁場を狂わせたものだからあたしの日が暮れちゃったのよ。だからもう今日は今日じゃないわ。あなたの今日も私の今日も向こう側にとられちゃったの。わかったら早く返して、お互い元に戻らないと蛇男が出てきちゃうのよ、こういうときは。」

全然わかってないよ。どうしたらいいのさ。

「蛇男?」
「そうよ、どんでもないわ。時空の割れ目から湧いて出るの。魂を食うのよ。睨まれたら動けない。」

カエルかよ。

「甘い声で誘うのよ。ぞっとするような甘い声。…あれでいくつの魂を変色させちゃったかしれない。」
「もうね、死んだふりするしかないの、あんなのに魂食われちゃうくらいなら頭がイカれた方がましよ。」

魂を食われる?
「魂食われるとどうなっちゃうんだい?」

ミュウはおそろしい顔をした。琥珀の瞳がきらめいた。
「ばかじゃないの?見たことないの、魂食われた人間は結構いるのよ。どの世界のどの時空にもまんべんなくね。顔の色も目の光も何にもない、くすんだ魂。」
「甘い声で誘うのよ、まるで黒砂糖みたいな甘たるい声。いろんなこといって誘うの。本当の自分を見つけるんだよ、そんなのは君のホントじゃない、どこかに本当の自分っていうのがちゃんといるんだよ、自分らしく生きるんだ、とかね。もうホントものすごくばかばかしいことばっかり言って誘うの。阿呆らしくて全身鳥肌、世界の果てまで飛んでくわね、理性のタガが!」

まあな、ほんとに余計なお世話なことではあるが。
でも別に永遠に自分探しとかしてても別にいいんじゃないか。雑誌が特集してるとおりにさ。目くじら立てるようなことでもない。

自分探しなんて信じてするだけえらいじゃないか。ぼくなんか、ただぼんやりと目の前のレールに従って学校を出て入れたところに就職して、ひとりでアパートと職場を往復してるだけだ。日々に追われて、夜には疲れてただぼうっとTVをながめる。眠る。気がついたら、空っぽなんだ。大切なことも大切な人もいない。故郷からの便りも絶えてない。ひととき心を寄せ合い、優しい気持ちやほんのりとした夢をくれた女の子たちは、しばらくするとみんなぼくから去って行った。

もともとそうなんだよ、探すべきものなんて何もない。当たり前だろ。
ああだけど、きっとぼくには何かが欠けているんだろうな。

…まあだからそんなことでさ、それで魂食われるってのも確かに理不尽かもしれないとぼくは思ったんだ。

とにかくどうも物騒な話なので聞いてみた。
「ええと、じゃあぼくはどうすれば…」

と、そこでミュウは突然顔色を変えてポーンと跳躍した。見事だ。
飛んでいった先から声が降ってくる。

「ホラ来ちゃったじゃない!あんたもうまく逃げなさいよ。今あたしたちは本体のない影なんだから誘われちゃったらおしまいよ。ひとたまりもなく食われちゃうわ。」

見上げたら、青空の端にキラリと琥珀の光が光って消えた。

そうしてぼくはいつだってこんな風に取り残されるんだ。
携帯電話を覗き込む。

ためいきをついた。
「これだな…。」

奇妙なプログラムが立ち上がっていた。

 *** ***


待ち受けに蛇男なんていれたくない。
だが、電話を開くと自動的に蛇男・プログラムは立ち上がるらしい。ウイルス感染したかのようだ。削除はもちろん効かない。

意外なことに、特に生活に支障はなかった。
が、鬱陶しい。

蛇男はそれから日に幾度となくあらわれるようになったのだ。我が物顔に電話の中を跳梁し、既に僕の個人情報を食い荒らしている。うっかりアイコンを眺めていると、いつの間にか背後に現象化していたりする。さまざまにささやきかける。本当に望むこと、あんたが気付いてないものだってなんだって何もかもかなえてやると甘い声。

ああ、ため息をつく。
ぼくの携帯電話なんだが。毎月料金を払ってオプションのウイルスチェックサービスに入ってるんだが。

 *** ***

「おまえはあれが欲しいのか、欲しいのか?」
或る夕暮れ時、帰宅途上。夕闇に輝き始めた星々にみとれていたら声が響いてきた。
またあいつか。

おお、欲しいとも…

「やるよ、お前にあれをやる。簡単だ。
お前が喜ぶならおれ、あれをお前に全部やる。」

嬉しそうだった。はしゃいだこどものような声が僕の周りをはねまわった。蛇男。今日は道化師の派手な帽子をかぶたこびとの姿をして現れた。そして瞳は確かに蛇だ。ぬめぬめとさまざまの金に輝く虹の虹彩

一体どっから出てきたんだ。

ひどく嬉しそうにやつは言う。「なあ、ほしいんだろ。やるよ、全部お前のものにしてやるよ、おれ。」

そのとき突然、胸を突かれるような強烈な憐憫を感じた。

蛇男。かわいそうな蛇男。ヤツが少しでもが幸せを感じることができるなら、できることは何でもしてやりたいと思った。それは唐突な衝動であった。それは奇妙に激しい衝動であった。

そうだ、ぼくは彼にぼくをくれてやろう。僕の魂を。こんなうすぐらい魂、全然惜しくなんかない。まるごと全部くれてやる。この考えにぼくは夢中になった。どうして今までかなえてやらなかったんだろう。何かがストンと腑に落ちた。もともともう空っぽなものだ。

…蛇男はかわいそうなくらい喜んだ。笑ってくれた。
幸せそうに笑ってくれた。ああ、その瞬間は。…もうなにがどうなってもいい、というくらい、嬉しかった。変な話だけど。昔から定められていた通りの運命を正しく受け入れた、という気がしたんだ。

そしてやつは約束通り、僕にすべてをくれた。

夕暮れのひとときの永遠。
僕はあの時の空の輝きとちらちら瞬き始めた星の持ち主になったんだ。

だけど、その星はその時空に完全に一致したものだったし、その時空とはすなわちその時の僕を含んでいた。それを丸ごと切り取ったんだ、蛇男は。僕もそのときの僕を切り取られた。

そのときはね、変な気分だったよ。
一瞬、世界がひっくりかえって裏返ってさかさまになってぐるぐるまわって、…とにかく何がなんだかわからなくなったんだ。

 *** ***


「うむ。星に付帯してる。空間はあの光を焦点として折りたたまれてるんだ。」
「?」

気が付くと、ぼくは奇妙に無機質な白い部屋で、蛇男とテーブルをはさんで向かい合っていた。
テーブルの上には市販の風邪薬の瓶ほどの小さなガラス瓶が置いてあった。

ぼくは部屋を見回す。白い壁には無機質なアルミの窓枠、そのガラス窓の外には変に明るい青空が移っていた。遠くに飛行機が飛んでいる。

そしてテーブルの上の瓶には夕空が入っていた。星の瞬き始めた、柔らかな珊瑚や琥珀や天鵞絨の藍のさまざまのグラデーションに輝く空。確かにそれはあのあの空だった。僕が欲しいと望んだそのとおりの。

「ありがとう。」
しばらくはただ黙って蛇男と空を見比べていたんだが、やがてぼくはそう言った。

彼の顔はよく見えなくなっていた。邪悪に見えた虹色金色の虹彩の瞳ももうそんな風に見えなかった。かなしげな水色が見えただけだ。おそらく夢の中だから意識の焦点がけぶってしまってよく見えなかったんだろう。あわくやさしいみずいろ。ふりそそぐ。

切り取られた星空は、蛇男に頼んで、小さなガラスの砂時計の中にいれてもらった。

だからあのときの星はもう誰も見ることができない。ぼくがこうしてここに持っている。閉じ込められた時間、ぼくの手の中の宇宙はきらきらとあの世界の空の美しさの永遠を歌いつづけてくれる。

夜には部屋を暗くしてその小さな夕暮れをそっとひっくり返す。流れ出す星の時間、至福のとき。ぼくは確かにその時間の中にいたのだ、いや、いるのだ。ぼくはその時間の中に溶けだしぼくのかけらと一致する。その中に溶けてなくなってしまう。ああからっぽだ。そして本当にこんなに幸せであったことはない。

 *** ***

代償ね。
そうだね、ぼくの魂は彼のものになった。

ぼくは彼だ。

完全に魂を食われてしまったらそれはもう、存在としてゼロになる。だけど、それは例えばいわゆる悪魔に魂を取られる、というのとは違う。あれは0ではない。死後負債を払う、善悪の牢獄に繋がれたまま、永遠の地獄の側の存在になることを意味する物語だ。対して、蛇男に「食われた」魂はただ塵芥に帰する。が、そう、それは生きながら死ぬことではあるのだが、死にながら生きることでもある。世界に食われるのだ。それはひとつの解放の感覚をともなうものだった。ふわりと、解き放たれる。

魂を食われても、具体的には何も失わない。記憶や感情がなくなることはない。知識も能力も、何一つ失わない。友愛や倫理観、基本的な人間の精神のパーツは何一つ失われはしない。

ただ、穏やかだった。いつでも世界も自分の存在も、薄皮一枚隔てられた向こう側にある。ぼくはからっぽだけど、すべてはただ、あるようにしてあった。それだけのことだ。

…ああ、そうか。魂を食われることは、こんなにも安らかなことだったのだ。
寂しさと安らぎ。なんの欠損もない。もうほんとうになにも探さなくていい。

そう、それは果てしない寂しみではあったんだけど。

毎朝、海のように深い寂しさの中に目覚める。あおいあおいその海の青。どこまでも遠く深い海。揺らめく泡と淡く曖昧な薄い光の中を為すすべもなく浮上してゆく、ひんやりと冷たい胸の中を浮上してゆく。やわらかな寂しさのゼリーで満たされる。

小鳥のさえずりも透き通った朝の光もさらさらと流れる清いその大気もそのゼリーに包み込まれてしまう、いつかのように新しい新鮮な力、未来を夢見る力をもたらすことはない。けれど、そのゼリー越しにはね、くっきりと見えるんだよ、その新しい未来を夢見る力の姿が、その物語のうつくしいかたちが。そこからはみ出してしまって、それを受け取ることができなくなってはじめて見えるものなのかもしれない、淡く、かなしく、激しく憧れる。失われたもの。切ない青春の記憶のような。最中にいるときは憂愁でしかなかったものが読みかえられ芳醇な輝きを放っているそのかたち。

「それがもっと救いようのない闇であるってこともあるんだけどな。恐怖で気が狂うタイプの。」
「ケースバイケースだ。ひとによるよ。」

蛇男はこういう。
ミュウがぼくを救ったのだと彼は言う。ミュウがぼくに助けを求めてきたときのことを、彼はこう解釈しているらしい。

…その物語はまた別の話だ。そう、失われたもののことを、失われた魂のことを、ぼくはいま初めて語り出すことができるような気がしているんだ、閉じ込められたぼくの夕空の時間をそっと放つとき。

ことばが、うまれてくる。

そのために、ぼくは蛇男に仕込んでもらった。
ぼくの携帯電話には今、スタートアップ・プログラムの蛇男インディケーションのかわりに、白い部屋のアイコンがある。立ち上げると開かれる、その部屋への通路。ぼくは入り込む、そして組み込まれる。ミュウとぼくのこと、蛇男との世界を渡り歩くような冒険の記憶を、その言葉を、物語を紡ぎ出すことができる場所。過去の方向に失われるはずだったあのときの夕空を、その存在まるごとを永遠に保ち続けているプログラムだ。

「…これは変則だな。まあもともとがおれはここではミュウんとこのおれとは違うんだ。ミュウとお前の世界とでは違うんだ。もともとからっぽなものがからっぽでないみたいにつくられたとことそうでないとこじゃな。組成が違う。」

蛇男はこう言った。魂の食われ方にもいろいろあるらしい。で、しかも、あちらの世界では魂を食われることはもっと違う現象として顕れるものらしい。大体ミュウは人間ではない。とにかく頭がイカれることもなく魂を食われることが、ミュウたちには苦痛に近い恥辱として感じられるのだという。…もしかして、ここの人間の失われた魂が、どこかで具象化したもの、「失われた魂の国」みたいなとこの生き物なのかもしれない、とふとそんなことを思った。

まあね、ただぼくは本当に頭がイカレてしまったのかもしれない。医者はそう診断するのかもしれない。脳のホルモン分泌状態かなんかを調べて大層な病名をつけてさ。だがそれがなんだっていうんだろう。
大体イカれてるかイカれてないかなんて誰がわかるっていうんだ。

ぼくは胸の中にうつくしい蛇男とその白い部屋をもつことになった。

それだけのことなんだ。

窓の外には永遠に広がる青空、ひどく懐かしく晴れやかな、ストンと高すぎて胸の痛むような青空が見える。決してそこから外に出ることはできないけれど。そうして、遥かよりくる飛行船の銀色がときおりひらめくように通り過ぎる。そのときには、ミュウたちの笑う声がきらきらと降ってくるような気がする。部屋中にきらきらと細かな金糸が震えるような輝きが降ってくるんだ。星屑が降り注ぐんだ、花火の最後の一瞬の輝きような、あえかな。

蛇男がいる。(たまに出かけている。帰ってくると、大抵疲れた顔になっている。)そこからは、どこにでも行ける。どこにも行っていないのにどこにでも行ける。すべての場所はその輝く青空の窓の向こうに広がっている。宇宙は虚無や闇かもしれないが、それは同時に懐かしく輝かしい光の空間でもあるのだ。ペンと、紙と、キイボードがおいてある。ぼくは、プログラムを打ち込みつづける。

白い部屋に蛇男とともにいる。

がらんどうの部屋。嘗てみっしりと濃い何かが生まれたところ、空っぽの白い部屋。小さくて、とても広い、からっぽでがらんどうで、とてもあかるい部屋。いつでも、ぼくはここにいる。いや、ずっと前からそうだったんだ。ここから始まって、ここで過ごして、ここに帰ってくる。

かなしくて、あかるい、このひんやりと優しい光の中にいる。