酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

携帯音楽プレーヤー

音楽は好きだけど、電車に乗ってるときやお散歩してるときは街の中のさまざまの微細な物音に包まれているのが好きだった。風の音車の音人の話し声鳥の声その遠近による音響の立体。そして心の中にはナチュラルな脳内再生ミュージック、脳内くちずさみソングと、それら外界のざわめきは、しっくりと多重奏をかなでてくれる。
(というか、音楽聴きたいな、と思うときもあるんだけど、耳に合うイヤフォンや頭の痛くならないヘッドフォンに出会えなかったという理由もある。)

ところが最近、新兵器無線イヤフォンを入手した。コイツがなかなかいいんである。耳から落ちない。コードレス。3Dとかなんとか謳われている音質のよさ、電車内でも充分にひたれる、ほどよい遮音性。

…ということで、宗旨替え、というほどのことではないけれど、プレーヤーを持ち歩くことが多くなった。

光の薄い冬の朝の街でムーンライダーズの歌に救われた日もあったし、
春の陽射しの降る朝の街で静かにこぼれるピアノ曲大貫妙子の声に救われた日もあった。

週末昼下がりの電車ではキセルハナレグミ細野晴臣。気怠く懐かしい脱力ヴォイスと中央線。
夕暮れ帰り道では知久さん、たま、かなしいほど突き抜けたエロティシズムの祝祭。

ああこのひとときの陶酔、この快楽のために生きている、という気持ちになる。
人生をインテグレードする音楽の開く時空。「永遠の現在」ポケットに入り込む。

これを耳にはめた途端、世界が変わる。
この瞬間の感覚はいつもミラクルだ。

ソフィー・マルソーの「ラ・ブーム」だっけな、どってことない可愛い青春映画なんだけど。ダンスパーティに出かけた恋人たち二人が、自分たちだけヘッドフォンをつけるシーンをよく覚えている。その瞬間、騒々しい周囲の音楽から遮断され、ふたりだけの世界、そのヘッドフォンからのチークの音楽に酔いしれて踊る。観客は二人の世界を共有する。ヘッドフォンという小道具を用いたこの「二人だけの世界への移行」の切り替わりの演出がすごくうまいと思ったのだ。ヘッドフォンを付けた途端変容する世界。映画全体の空気を一気に染めかえる音楽効果のリアリティ。


演劇性、歌舞音曲、それらはいつも「ここではない世界」につながるための儀式、祝祭、呪術としてあった。ここにありながらここでないところに繋がる、ダブった時空。演じる意味、それは、ミメーシス。アイデンティティの変容、あるいはそこにありながらその牢獄からの解放を可能とする、トランスのための、常世へと通ずるメディアとなるための。

例えば賢治の農民芸術論概論において、芸術はイデアを模倣するミメーシスという行為であり、それはすなわち現実という観念によって閉ざされたこの世界を、その行為に付随する観念の相対化によって読み換える方法論であった、輝かしいものへ。

「芸術をもてあの灰色の労働を燃せ」
「詞は詩であり 動作は舞踊 音は天楽 四方はかがやく風景画
われらに理解ある観衆があり われらにひとりの恋人がある
巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす」

賢治の言う「四次元」のありかたは、このような解放のツールとしての芸術を方法論とする創造的行為によって開かれるものであった。現実を生きながら四次を生きる、その多層構造の構築。


…鬱の人が、サングラス、マスクで顔を隠していないと怖くて外を歩けない、ということを言っていたのを聞いたことがある。己の存在を覆い隠すことによって、「見られない、裁かれない」という感覚、世界が己を評価し断罪するための視線から隠れている、守られている感覚を得る。薄い膜一枚。

隠れる、というのとは少し違うが、その薄い膜一枚によって隔たっている、外部によるレッテル貼リ、カテゴライズその他による己を限るものである論理の閉塞から逃れている、自らを閉ざすことによって外的圧力から免れ、内部に何物にも侵されない自由と解放を得る、という感覚としては、音楽で周囲から隠れたおのれだけの世界を創出する、という行為も似たものがある。世界がブレ、ズレる。主体はその内側の立ち位置の確保によって、固定され閉ざされたシステムという物語に対してのメタ位置に立つことができる。ミクロからマクロへの反転という図式である。

これは、例えば北村透谷が自由民権運動、政治活動に挫折して負け犬となって牢獄に閉じ込められたときはじめて発見することができた文学の深淵の構造と同じものである。
うろ覚えで恐縮だが、社会、政治というシステム、「現実」「外側」と信じていたその物語から排除され挫折したとき、牢獄において否応なく己の内側に開かれた瞳に写ったものが、「内部生命論」、すなわち「実世界」に相対する「想世界」という真理、その実存的思想であったのだ。

そのとき、主体は世界に組み込まれる抑圧を受けるものではなく、まさに主体として世界を作る、物語を作る力を発生させる状況の助力を得ている。魂の故郷ともいえる場所、世界に対する能動の発生する場所。読み替えの行為である。

例えば人々が電車の中で携帯音楽プレーヤーのイヤフォンをつけることもその一つだ。この機器の助力とは、本来脳内で打ち鳴らされるべき物語、演劇、音楽が外部にはみ出した文明機器によって得られるという特色をもつ。確か中沢新一がこのことを、脳が外部に延長される、というような言い方をして表現してたんじゃなかったっけな。電車内の読書だって構造としては同じものだ。心の中に別の世界を開いて多重の時空を生きる自由を得る構造。

音楽、絵画。そして映画、それが文学になるプロセスを心の中に発生させる能動性。
五感による物語とそれが抽象に組み立てられる創造のプロセスの中に生まれるダイナミクスの意味は、その中に「生きる」ことを可能とするところにある。

それは、世界と一体化し、世界が無限の意味に満ちていると感じられる瞬間なのだ。


豊かさとは、いつでも己の内側の自由によって保証されるべきものである。
(幸福とは手足を楔によって繋がれた状態である、ともいう。繋がれる幸福と解放される幸福、それを、対立としてではなく、多層として生きるということが、コミットし続けながら逃げつつける矛盾を成立させるテクニックということなんだろうと思っている。愛と、自由との相克を耐えて生きる、その方法論。)