酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「小さな巨人」その後

実は観つづけております。「小さな巨人」。

ここであんなにこきおろしておいて、と思われる向きもあろうかと思いますが。…いやあ、だってさ、楽しみ方がわかってきたりしましてな、キャラクターに愛着もつようになってしまったりするともうおしまいです。

でもね、でもでも、全然意見は変えてないです、ほんと。全然言ったこと撤回する気はないし今でもおんなじように思っとりますです。…だからさ、ただおもしろさの構造、そしてその持つ可能性として、こないだ比較したような「シン・ゴジラ」と同じ地平におくべきものではない、ということで。

電子レンジにオーブンの役割を求めてもダメである。

だからこれはこれで、このジャンルでは優れたエンタテイメントだと思うワケです。テレヴィ・ドラマというよりは舞台劇的なわざとらしいキャラクター、大仰な表情、せりふ回し、このこれ見よがしのわざとらしさを登場人物の丁々発止の腹の探り合い、劇中劇としての味わいで込み入った陰謀劇を楽しめるようになればめっけもの。お約束を楽しむ娯楽技芸の洗練。

あとね、これが重要なとこなんだけど、最初の「芝署編」ではウェットな人間ドラマに主眼がおかれすぎてた。これでイマイチ感が前面に出てたんだけど、これが今回「豊洲編」になって、警察内陰謀探り出し丁々発止及び謎解きゲームな部分に主眼が絞られてくると役者脚本の持ち味面目躍如、断然面白くなってきちゃったってことなのだな、つまり。「芝署編」で一通り紹介設定された登場人物像を自在にひねって善悪敵味方二転三転、視聴者を翻弄し楽しませ遊んでゆくゲーム本番到来なイメージ。

推理ドラマは閉じられた構造建築の美学。受け手は純粋に受け手となってそのストーリー構造の巧みさに乗せられていればよい。(だからさ、大体こういうドラマなんだったら、「悪役に利用翻弄される子を思う不幸なシングルマザー」だの「娘を不当に殺され誘拐テロに走る哀れな中小工場主親父」だののあまりにもイージーティピカルなおセンチ路線にハンパに頼っちゃっちゃダメなんである。いっぺんにつまんなくなってしまう。)

主人公香坂の家庭でのまぬけシーンと新人女の子役の三島が、舞台劇的とは異なった、いわゆるナチュラルな演技。これが一般的なTVドラマのうるおいというかほっと一息一服の清涼剤的な(男性原理企業ドラマ的の大仰に深刻ぶった筋立ての中での家庭、女性の柔らかな日常の微笑ましさ)味わいをさしはさんでるって匙加減もなかなか。

だからさ、娯楽に何を求めるなんだな。
(基本的にやっぱり好きなジャンルではないのでまあ惰性ではあるんだけど、次はこれどうなるんでしょうわくわく、の罠にはまった。)

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何をもって人は、自分は、今これを面白がっているのか。自分のどの部分がどのような箇所をおもしろいと感じているのか。心は何を喜んでいるのか。悲しんでいるのか。それは己の精神のどのような構造に基づいているのか。

芸術であろうと科学であろうと文学であろうと人間関係であろうと。対象がなんにせよ、これを見極めるのって結構重要なことなんじゃないかな、と思っている。自分とは何か世界とは何か、というテーマとそれは同義だから。