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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「ホテルカクタス」江國香織

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「僕の小鳥ちゃん」、「ホテルカクタス」。 

江國さん久しぶりに読み返す。 

この人の作品は、やっぱりこういう童話風というか、いわゆる大人の絵本という感じの作風のが好きだな。 

 
意味があるようで、ないようで。
 
…ちょっと気取ってるかな。
若い女性向けのお洒落さ、春樹的な気取り。
これをそういう情緒や雰囲気を楽しむだけのもの、としてとらえることだってできるけど。 
 
だけどやっぱりきちんとひねりが効いてて、きちんと深みがある。 
 
とりあえずこのひとは類まれなる詩的感性の持ち主で、あざといほど巧みでありながらポエジイにあふれた、そんな文体を操ることのできる人なのだ、と思う。濃やかな細やかな感情のひだの震えを的確に感じ取り、それを掬い出し救い出す。言葉と言葉の間にそっとひそませるようにして。 
 
びいんと響いてくる感情。やるせなさや、切なさや。
 
そしてけれど、それを淡いさりげない日常としてとらえ「流してゆく」のがこの作品だ。
 
そして、その、流してゆく、許し合ってゆくという物語、それ自体に、淡々と流れる淡い日常そのものの価値がかけがえのないものとして読みかえるための力がある、のではないかと思うのだ。哀しみと無常を日常に包み込むこの感覚。それは治癒しない。傷を傷のままにそっとくるみ込むだけの「癒し」としての救済である。
 
その「なんてことなさ」自体のもつ深み。世界があるがままであるというその状態を、物語としてとらえること。そのほのかな切なさと慎ましい幸福を創造する力。
 
そうして、ナンセンスな味わいの中のほのかな諧謔
人生、こんなもんだ。深くも淡くも。
  
…ぱたんと本を閉じて、ただほうとしばし優しい気持ちになる。
その優しさは、廃墟の無常の寂しさに少し似ている。 
 
さまざまの世界の多様な価値観、他者という理解できない感性、理不尽、己のしょうもなさ。 
 
けれど、ただそれをそれとしてともに感じ抱きしめている人がいる。お互いにその「理解できなさ」を認め合うことが、存在を、尊厳を認め合う「友情」として成り立っているということ、その感覚を得るだけで、自他を共にゆるやかに「許してゆく」優しい気持ちになれる。
 
 
作者は女性的な細やかな感覚で恋愛を主体とした作風をもっているとされているが、ときに不思議にファンタスティックな童話風のものを書く。(私はこれが好きだ。)「ホテルカクタス」のテーマはまさに「異種間の友情」なのだ。 
 
これは一種いわゆるダイバーシティの基礎でもある。
 
まあ端的に言えば、「ま、それもあり、これもあり、だもんね。あのひとは、ああいうひと、このひとは、こういうひと。」
 
多様であるそれぞれのが、そのままそれとして認められ、救われている、許されている。異なる感性を持つ、価値観を持つ生物である誰かに受け入れられている。絶対ではなく、それぞれのゆるみをもって、或いは小さなうしろめたさを探られることなく許し合うテゲテゲさをもって。誰もそれを裁くことはない。
 
また、例えばそれは日曜夜のサザエさんにも似ているのかもしれない。それぞれの人々が様々なデイごとの中で仲良く調和しながら暮らす街の日常。永遠のイデア、永遠に続くその平凡な日常の幸福という非凡のこと。一冊の本の中に閉じ込められたその永遠。
 
 *** *** 
 
ホテル・カクタスは街はずれの小さな古いアパートだ。そこに住んでいる帽子ときゅうりと数字の2の奇妙な友情の日々の物語。
 
…何の説明もなく「帽子ときゅうりと数字の2」である。なんだこれは。
 
人物のキャラクターから名づけられたものであるあだ名的な呼び名かな、という想定の下に読み進めてみると、そうでもない。(くたびれたハードボイルド美学おじさん風の帽子は酒飲みで読書家、遊び人の風来坊だし、きゅうりはガソリンスタンド勤めの肉体派健康オタク、おおらかでこだわらない(深く物事を考えない)まっすぐな太陽の似合う性質、数字の2は役所勤めで融通の利かない几帳面な性格だ。)やはり帽子はかぶるための帽子であり、キュウリは緑色のぱりっとみずみずしいあの野菜のキュウリ、数字の2は概念が擬人化したかのような数字の2、そのアラビア数字の2のかたちをとったもののようだ。
 
にしても、この三人(人?)は社会的に人間として存在しているのだ。他の動物、例えば猫はちゃんと口をきけない動物としてのペットの猫だし、他の登場人物は人間である。三人が恋するのも白いワンピースの似合う女の人だ。
 
童話的構図の中での、キャラクターの性格付け。その奇妙なリアリティ。
 
メタファ。これを、そのままその言葉の意味のブレを利用して擬人化風にし、めくるめくナンセンスワールドに持ち込んでいる、といってもいい。これは、おもちゃや動物が擬人化される類のよくある童話的構図のようではあるが、この作品においてそれはもっともっと奇妙だ。筋トレが趣味のきゅうり(手足はどんな風についてるんだ?)、ウイスキーをたしなみ古いレコードを聴く帽子(どこに目鼻がついてるんだ?)、グレープフルーツジュースを飲む役所勤めの数字の2(いったいどこに口が…)。これは、絵本や漫画によくあるような、アンパンマン的にイラスト化されうるモノの擬人化とは異なる。安定した視覚的要素に帰着していかない、直接概念と意味のフィールドに切り込んでくる「コトバの力」にだけよっているというところにその特化した意味があるのだ。
 
これは寧ろ、キャラクター、人格の「記号化」、といった方がいいかもしれない。これは決して絵本にならない。(実はこれは美しい挿絵がふんだんに配された「絵本」になっているのだが、そのすべては何とも味わいのある陰影をもった寂しげな無人の風景、夢の中のような、がらんとした廃墟を思わせるアパートの内部の風景なのだ。それは実は一層本作の人物像の映像化の不可能性、固定された映像的要素になりえない記号としての三人、見える世界と見えない意味世界の間を揺れ動く二重の風景としてのキャラクター、という特徴を深めたものとなっている。)(この絵素晴らしい。画家は佐々木敦子さん。)
 
(この二重化された風景というテーマは、結構根深い。賢治の「春と修羅」「すべて二重の風景を…」主体の見ている意味世界、心象風景が現実世界を二重のものとする。…また、例えばそれは、昭和少女漫画の名作として名高い「綿の国星」などでは、仔猫が自分が人間の女の子であると信じているために、少女として描かれるという手法として現出している。主人公のチビ猫は、その自己認識によって、少女に耳と尻尾がついたイラスト⦅猫であることを示す「記号」》で描かれる。が、ごく自然に周りからは仔猫として見えており、そう取り扱われているという不思議な世界を描き出している。読者はそれを時に「仔猫」としての映像と読み重ねなければならない。猫の主観が、その真実を目に見える世界にダブらせて「翻訳」しているのだ。)
 
ほんの少し、ズレている。現実が、ほんの少し歪む。読み換えられている。…この奇妙な設定がこのひっかかり、この違和感、この味わいを出すテクニックとなっている。現実の風景を、少しだけずらして、そこにうまれる違和感を利用し相対化する視点を得る。
 
殆んどシュルレアレスティックといってもよい、人間としてあり人間としてない、三人。

視界が絶えず二重にぶれていくような、視覚的に成り立たないこの奇妙な風景を想像する脳内作業の感覚を読者は味わうことになる。
 
…そう、これは、ブレヒトのいう「異化作用」と同じ原理である。

この「違和感」ズレによって浮かび上がってくるもの。自明のものとして不可視となっていた日常現実という物語の客観、相対化。…違和を誇示する手法を述べた「異化作用」の効用、演劇によるその戦略と同じ手法、同じ効果なのだ。ときにそれはカリカチュアとしての効果も生む。
 
 *** *** 
 
三人の日常、その何気ない日々をスケッチのようにエッセイのように描いてゆく柔らかで軽やかな風景。そのエピソードはそれぞれ可笑しくも哀しく、そして愛おしく、味わい深いテーマを潜ませているが、就中「ある日曜日の発見」「音楽」は印象深い。
 
「ある日曜日の発見」
 
これは、毎夜のようにきゅうりの部屋に集まって友情を育んでいた三人が、偶然外で出会ったときのエピソードである。
 
場面は新緑の季節、すばらしく晴れた或る日曜の朝。雑貨屋に牛乳を買いに来たきゅうりと新聞を買いに来た数字の2がばったり出会う。やあ、おはよう、と、二人はそのまま公園に散歩に出かける。そこでの会話である。サングラスを頭にのっけたランニング姿のきゅうりは言う。
 
「きみは、おもてで見ると別人のようだね。(中略)まるでどっかの嫌味な役所づとめ野郎みたいに見えたから、あやうくきみだとわからないところだったよ。」
 
2は言う。
 
「きみだって別人のように見えたよ。いかにも筋肉自慢って感じで。(中略)どっかの、しゃれのめした不良かと思っちゃったよ。」
 
…文字通り、彼等は嫌味な役所勤めとチンピラ筋肉自慢なのだ。

だが、友達同士となった彼等にとって、そのペルソナは最早人物の本質とはかけ離れた要素となっている。一度友達になってしまうと、その人物の内面を知ってしまうと。…すなわち、社会の構成要素ではなく直接その為人に接触して関わりをもってしまうと、もうその外側からの他者の視点には戻れない。一度習得してしまった語学(コトバ)のように。
 
二人はベンチに腰掛けて、周りのひとたちに自分たちがどう見えているかについて考える。
 
「『嫌味な役所務め野郎としゃれのめした不良』の二人連れに見えるわけです。実際は違う、と知っているのが自分たちだけだと思うと、2ときゅうりは愉快な気持ちになって、くすくす笑わずにはいられませんでした。」
 
人が人を見た目、第一印象で判断する、社会的にカテゴライズすること、その一般化され仮面をかぶったペルソナと対象の人物の本質との乖離、その違和感のことをこの話は語る。社会化されたアイデンティティ。あるいは社会化によって成り立っているアイデンティティ。…それは例えば「DQNねーちゃん風」「真面目が取り柄の営業マン風」「いばりくさった加齢臭昭和オヤジ風」「スタバでタブレットを操るノマド気取りのエグゼクティヴ風」「セレブブランド好きOL風」「ざまあすPTA主婦風」etc、etc…ステレオタイプにとりあえず分類する一種の社会的共通認識のことである。そして誰もが多かれ少なかれ気にするところ、「果たして自分という人間はどう見えているのか、どこにカテゴライズされるものであるのか…?」
 
で、ここでの卓越は、ふたりがその乖離について「愉快でたまらない」気持ちになった、という展開である。
 
社会的ペルソナでのみ認識されるのではない自分自身、その概念からはみ出るもの。
それを本質といってもいいし、アイデンティティ、己自身の全体性を保証するものといってもよい。…とにかくそれは孤独な形では非常に危うい存在なのだ。たやすく他者の視線に取り込まれてしまう。他者の評価を絶えず気にするだけの存在となり、自分とは何か、とわからなくなる。
 
人間は「社会性のみで」存在するものにあらず。文学のテーマの真髄がここに隠れている。そしてここでは、それを誰かと分かち合っている、共有されている、という認識があってこそ、その、社会的ペルソナからはみ出た本質そのものが保証されるのではないか、という命題がある。純粋な友情、という優しい、あたたかな形で。
 
これは、友情、という要素は、例えば共同幻想論的なアプローチをするならば、「対幻想」的なカテゴリに属する。「共同幻想」が社会性であり、「自己幻想」が芸術性や個的なものを指すとするならば、両者をつなぎ共に保証するものとしての「対幻想」というカテゴリのメディア的な役割、そのバランサーとしての重要性がここに浮かび上がっている、というわけだ。三位一体としての「個」と「社会」、そしてそれを繋ぐ「メディア」、という世界モデル。(「対幻想」とは基本的に恋人や家族をその対象とするのだが。)
 
自己幻想だけでも、共同幻想だけでも、ひとは歪む。バランスを失えば、その乖離と軋轢に苦しむものとなる。自己幻想が暴走すれば他者を攻撃、支配するエゴイスティックな独裁者になるだろうし、共同幻想に食われてしまえば個としての己を見失い、システムの犠牲となる美学に食われたパーツとなる(人間は部品)。レーゾンデートルはシステムへの寄与。機能するものとしての己である。そして彼がその拠り所のシステム(国家や宗教的なるものとして考えられる。)を失ったとき、或いは心が弱ってしまった瞬間に、己の存在意義は失われ、その自己否定から、モラルハラスメントの被害者、ウツや自殺に追い込まれる側の人間になるだろう。どちらにしろ、それは徹頭徹尾、孤独を意味する。そこに個と世界を肯定的に有機的に結びつけることを可能とする愛情を基盤とした社会性、そのあたたかなもの、「対幻想」的なるメディアが存在しないのならば。
 
…さて、で、この話の結末である。
じゃあ帽子はどう見えるのだろう、と二人は帽子を呼び出し、やってくる彼を見た途端笑いだしてしまう。

2の目には帽子が「逃亡中の犯罪者」、きゅうりの目には「くたびれた、ただのおじさん」に見えたからである。
 
「でも二人とも、それが帽子と『別人』であることを知っていましたから、帽子には何も言いませんでした。(中略)『僕たちがみんな、知り合いでよかった。いまきゅうりくんと、そう話していたところなんですよ』それから三人は連れだって、すばらしくよく晴れた日曜日の公園を、カフェをめざしてぶらぶらと歩いていきました。」
 
 *** *** 

さて、もうひとつ。「音楽」。
 
これも、「ある日曜日の発見」に共通するテーマをもつ。
三人がそれぞれいつもひとりで聴いている大切な音楽を皆で共有しようとしたときの違和の発見である。
 
己の個としてのの内面を晒すことによって、他者の視線を自らの内側に取りこんでそこに内包されたものとしてしまう。社会化されたものではないところにある本質としてのアイデンティティが損なわれる、という現象。己が個として存在するための大切な部分、それをここでは一人で聴く音楽に仮託して表現してみせている。
 
日曜日のエピソードとは異なり、ここで焦点化されているのは自己幻想と対幻想の関係性、対幻想の及ばないところにある個の領域の神聖さである。そして、侵すべからざる領域をもつ、ということをそれぞれテゲテゲに許し合う、認めあうものとしての友情、対幻想のありかた。
 
自己幻想、対幻想、共同幻想、どのカテゴリもそれぞれがそれぞれの要素に不可侵、不可知の領域を持ちながら、その3なるものとしての一体性、全体性を保つバランス感覚を必要とした世界認識モデルを構成する。
 
 *** *** 
 
さて、「大人の絵本」、「大人の童話」。
この矛盾を孕んだイメージを持つ言葉は一体何なのか。
 
大人。あまりにも重たくしがらんで主体をそのシステムの内側に組み込んでしまう基本構造をもっているのが、社会生活や恋愛をメインに扱ういわゆるその大人社会を舞台とした小説である。とするならば、その物語システム内部に捕らわれて流されてゆかない「外側の目線」、相対化する目線を潜在的保有しているが、童話や演劇、ナンセンスや異界ものというジャンルだと考えられる。
 
(文学というものが、世界と自分との関係、或いは自分とは何か、という疑問を、さまざまな物語の形として示しだそうとするものであるとすれば、主体が己自体のアイデンティティを成り立たせているシステム、社会性という物語の内側にいるか外側にいるか、これは結構重大な要素である。
 
優れた文学があるとすれば、それはシステムの内側からのアプローチであっても、その内部から世界の在り方、その認識自体によって生じている軋轢を描くことによって、その外側を示唆する、その世界の枠組みそのものを問い直そうとする視点を色濃くもっている。必ず。)
 
「オトナの事情」「暗黙の了解」という、システム存続のための論理の隠蔽はここではなされない。
 
ホテルカクタス、この作品の中で、それは論理の隠蔽ではなく認め合いとして許されるものとして描かれている。正統化されるものはない、正義はない。ただすべてはそれぞれが相克しあうことなくその矛盾を折り合わせて成り立っている。…そうしてそのようなところに周りの視線によって内包されるものとなった己の心の中の他者の倫理によって己を否定し損なうものであるモラル・ハラスメントはない。
 
何だろう。ほっとするんだ。
こういう世界の在り方、街の在り方。
 
心が枯渇したとき、時折思い出さなければならない風景。
 
 *** *** 
 
ここから蛇足オマケ。
 
因みに、主体に内包された他者の視線、倫理、という構造については賢治の「オホーツク挽歌」の次の一節がとてもよく表しているのではないかと私は思っている。
 
海がこんなに青いのに
わたくしがまだとし子のことを考へてゐると
なぜおまへはそんなにひとりばかりの妹を
悼んでゐるかと遠いひとびとの表情が言ひ
またわたくしのなかでいふ
 (Casual observer ! Superficial traveler !)
 
他者の視線が己の一部として刷り込まれ、己自身を否定し苦しめる倫理となる構造である。
 
では、そのどこまでを己、主体としているのか?

それを見極めようとするとき、主体が主体自身を解体することが必要となる。透明な自我。超越した自我。それを得るために必要なのは、アイデンティティを破壊したところから始める、「わたくしというげんしゃう」意識であろう。
 
…とまあ話が賢治に行くとつい風呂敷が広がりすぎてしまうので、これはまたいつかぼちぼちね。