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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「ぼくの死体をよろしくたのむ」川上弘美

さまざまなテイスト、さまざまな趣向を凝らした18篇からなるオムニバス。
川上弘美のこういう面が好き、これはあんまり、とか、同じ川上弘美ファンであっても、どの作品を好むか意見が別れるところかも。)(そしてこのどれもが、いつか作者の中で膨らんで生まれてくる大長編のタマゴ、その書き出しであってもいいような気がする。)

どれも川上弘美らしい、豊かな情趣、そして透き通るようにピュアでまっすぐなエロティシズムを湛えた不可思議な世界を醸し出す文体だけど、極めて技巧的、また冒険的なかたちをもった作品も見られるように思う。共通するのは、どこかがズレた奇妙なひとたちの、ズレた感覚の奇妙さをそのまま日常と地続きのものとしてまっすぐに受け入れる視線。不条理をゆがめることなく投げ出したそのままの世界、それに対する違和感をもあわせすべての.まるごとを、なんというか、ほとんど馬鹿正直な態度でそのような世界を受け入れる。

怒りや正義や、また恋愛感情にしても、激情的なるもの、激しいものはここにはない。ただ、遭遇する奇天烈な状況、ただ自然に湧いてくる己の感情をすべてそのままぼんやりと受け入れ、見つめる。変だなあ、と思いながら世界のことも自分のこともただその不思議をそのままに受け入れる。それは、現実世界で当たり前だとされていることの、その奇妙さ滑稽さをもまっすぐに映し出すことになる。それ自身の隠蔽された不条理と残酷さを。

そしてそのズレからにじみ出る、独特の諧謔

ただそのあわあわとした柔らかさを味わう。生きることをそんな風に味わう。

読後残るのは、世界の「どうしようもなさ」に対する、色調の淡い、しかしふかぶかと沁みいる致命的な感情。これはボディブローのように効いてくる、胸の芯のどこかが細かく細かく震えながらしゃくりをあげているようなこの感情。それは、おそらくただなすすべもなくさまざまを失ってゆくことの受諾とそれによる「切なさ」である。

 

 *** ***


「生まれつきの人」

「ルル秋桜」で、語り手の変わりものの女の子「ひとみ」(目をつぶった人々の写真の切り抜きを「死体写真コレクション」なるものとして宝物にしている。)と絵画教室の教師(杏子ちゃん)とのこんな会話の記述がある。

「でも、どうしてみのりはあたしに意地悪するんだろう」(みのり→ひとみの姉)
「そういう生まれつきの人なのよ」

 

杏子ちゃんはまたこんな風にゲイを説明し、ひとみはこう思う。

 

「自分と同じ性別の人しか好きになれない生まれつきの人のことをいうのよ」
あたしはさっきより、もっと感心した。生まれつきの人って、ほんとうにいい言葉だ。それならあたしは生まれつき死体の好きな人なのだ。

 

大切な死体切り抜き写真コレクションを姉に盗まれ隠され嘘をつかれ、それを姉の机から発見して責めたら、逆切れされたひとみ。マトモな母は日頃から娘のそのコレクションを気味悪く思っていたために姉の味方になり、逆に被害者のひとみを叱る。いじめる側に正義あり。完全なる理不尽である。

 

「ねえ、正義は勝つと思う?」
杏子ちゃんが聞いた。
「思わない」
「じゃあ、愛は勝つと思う?」
「思わない」
「死体、いいのがあったら、あたしも切り抜いてみるね」
杏子ちゃんのその言葉に、あたしはほんの少しだけ、なぐさめられる。でも、杏子ちゃんの切り抜いた死体が気に入るかどうかは、わからない。
「もしだめな死体だったら、断っても、いい?」
あたしは聞いた。いいよ、と杏子ちゃんは答えた。それで、あたしはもう少しだけ、なぐさめられた。

 

ただまっすぐなそのありのままの感情と思考が、どこかできちんと許され認められるものである、という感覚は、すなわち己の存在が無条件に愛され許され認められるという、存在のセイフティ・ネットとしての感覚である。古来、人類はそれを社会帰属意識や宗教によって補おうとしてきた。

…ほんとうは、そのような場所があれば人はきっと踏み外さず己や他人を害することなくなんとか生きていけるのだ。親兄弟に否定されたひとみのまっすぐな「生まれつき」、自分の存在そのものを「杏子ちゃん」という大人に認められたことに対するこの「少しだけのなぐさめ」の、ゆるく淡いけれど根源的なもののことを思う。川上弘美の真骨頂はここにある。ほんのりしたやさしさとそのひんやりとした切なさ。どこかダイバイーシティの思想の原点のようなものを思い起こさせる。…何はともあれ矯正しない、赦しと他者への尊重の感覚を、「テゲテゲの緩さ」としてどこかでもっていないと、その社会は必ず終焉を迎え破局を迎え、戦争に至ることになる、ような気がする。

 

異界やSF的な状況設定ではなくても、登場人物たちはその異質さでもって既にこの現実世界からはズレている。あてはまらない「法」に則って生きている。まっすぐなのだ。

 

…ひとつひとつの作品に、語りたい思いはあるが今の私には力が足りない。
(どうも村上春樹の「女のいない男たち」のモチーフと重なるところが大きいように思うのだ。この「生まれつき」のテーマと、春樹のいう「病気」。女性の裏切りをそのひととなりとは関係のない独立器官としてその存在を認める「独立器官」。女性の「やつめうなぎ的思考」。(この作品に関してはここでの投稿で言及しています。「シェヘラザード」)彼はそれを技巧や演技でカヴァーしようとする人々の悲劇をも描く。)(もうひとつは、「喪失」への思いのこと。)

とりあえずひとつだけメモ。
今の私にとって一番胸にぐっときたのは、最後の「廊下」である、ように思っている。人生における最大の愛と失恋の大きなドラマ、ゆっくりと一生をかけその喪失を証明し、(喪失というか、それはある意味不思議な成就でもあるんだけど)(もう一人の「自分」という謎の設定)感覚。そしてさらに、その失われた「己の全人生を通して最愛だったはずもの」が、その観念的な純粋さのことが、実は今の日々、年月と日常の中で既に思い出せなくなっている己自身を「発見」し、それを泣く。

川上弘美らしさはここである。泣きながらただ今の夫との日常現実に戻ってゆく、その記述の〆がたまらない。(「土曜日は映画を見に」「儀式」なんかも、なんというか凄まじいものがあると思うんだけど、それはもう、もちろん。)