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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

スプーンと貞操

愛用のスプーンがある。

特に高級品でも思い入れのある品というわけでもない。
確か、マレーシア航空に乗ったときに出来心でお土産にしてしまった機内食用のステンレスの大量生産スプーンである。このスプーンを借りて、機内に持ち込んだおやつを食べたりしててなんだか気に入ってしまったのだ。

(茹で栗なんか持ち込んでむにむにと食べながら奇妙にこの世離れした光に輝く美しい雲を見ていた。甘栗ではなく茹で栗の場合スプーンが必要なんである。)(ちなみに甘栗の場合はたとえ「くりわり君」を使用しても指先が黒くなるのは避けられない。)(オレは昔から栗が非常に好きであった。ケーキのチョイスはモンブラン。)(万年筆の選択はその限りではない。)(父は愛用していたが。)(ゾーリンゲンのペーパーナイフとか登山ナイフとか大事にしてた。なんかオレのパパってひょっとして昭和のミーハーブランドボーイだったんかしらん。)

そいで、なんとなく毎日使ってたら使い心地がよくて馴染んでしまった。マレーシアスプーン。形と大きさの相性がよかったのだろう。ほかのスプーンを使うとどうも居心地が悪い。食べ物の味が変わってしまう。うちにいるような気がしない。枕が変わると眠れないとかそういう感じで、落ち着かない。

持論として、箸だのスプーンだの茶わんだのは、基本的に専用であるべきだ。他人のものを使いたくないし、自分のものを他人に使われたくない。(ここで私が賢治の「永訣の朝」において記述された一節、賢治と妹がそれぞれ愛用した茶わんの藍の模様の描写を想起したのは偶然ではない。日本ではその人が着るもの使うものには古来魂が付着することになっているのだ。)


…と言ったら、「心が狭いなあ。」と言われた。

そういう問題じゃないだろう。
衛生上、という気もせんでもないがそういうことでもない。

何だろう。

思うに、愛である。
大体だな、己の愛する妻を他人と共有できるか?他人が妻を我が物顔に使役したり犯したりすることを許せるか?

ということを考えたりしてて思ったんだけど。
自分、スプーンは嫌だけど恋人ならまだ人と共有できる、というようなことを。というか独占したいけどそれが無理というならば許容できる。全員仲良くそういう関係であることを承知の上で納得しそれぞれを尊重できるならそれでいい。その人との時間を大切にすることになんの変わりはない。そりゃとりあえず全然嬉しくないけど、それはただ不安だからということに過ぎない。

だけどスプーンを使われるのはイヤなのだ。

モノを愛することは自分に所属するものを愛することで自分の領域をまもり愛する、自分の延長、自分の世界と時間を愛することである。もしかして、人を独占し所有し隷属させ己の延長として愛したいという欲望の代替であるかもしれない。支配するという方向性、己だけを愛する者という保証を得たい、それによって安心したいという子供っぽい己のアイデンティティとテリトリイ、安全領域のまもりかた。

モノを愛するように己だけの救済の対象を求める。それは決して己を脅かす他の何かによって穢されてはならない。

何だろうな、こういうの。


 *** *** ***

 

そのために独占し支配する、エゴイスティックに対象の女性を愛するというテーマでは、例えば太宰の「人間失格」のエピソードのひとつのことを思い出す。

(実はちゃんと読んでいないんだが、TVの討論番組見て、あらすじだけ知っていて非常に気にかかったエピソードがあったのだ。ちゃんと読まねばならんのだが。)(そういえば自分、小学生の頃は、読みたくない課題図書はろくに読まずに当たり障りのない優等生な読書感想文を書くという犯罪的テクニックに長けていた。)(読みたくないときは仕方ないのだ小学生。)

ちゃんとテクストを読めば、ここでの主人公の感情、思考スタイルやテーマは全く違うところにあるんだけど、まあ一般的なシチュエーションとしての、「例えば」ね。

穢れた己を救ってくれる無邪気さと明るさ、清らかさを持った娘との、ひとときの幸せな結婚生活を得た主人公。
それを壊したのは、その妻を襲い強姦した暴漢、そして主人公がその現場を目撃してしまった事件による。

二匹の獣のようである、と主人公は罪もない被害者の妻を救うこともなくその現場をただ卑しいものとして傍観する。
「穢された妻」という感覚。

そして「穢された」というありもしない己の罪の意識に傷つき主人公にとっての聖性を失う妻。
何の罪もなく、暴力の被害者は社会的にセカンドレイプされるものとなる。

これ、スプーンで考えるとどうかなあということなんである。

スプーンに罪はない。
だが生理的嫌悪感を催すほどに大嫌いな人間が勝手に使ってしまったその現場を目撃したとする。

イヤである。

もう使いたくない。ガシガシ洗って消毒してもなんかイヤである。目撃してしまった風景はその存在にこびりついて、スプーンを使おうとするたびにいちいちよみがえってくる。思い出したくもない光景が。(あるいは薬液ではなく長い間日光消毒して、呪術的な意味を添加した禊というプロセスを経たら大丈夫かもしれない。「読み換え」「浄化」である。)


だがスプーンは泣く。彼女に罪はない。暴力的にただ穢されてしまったのだ。可哀想なスプーン。

だがイヤである。

…この辺だなあ。

 

癇癪を起こしてポイと捨ててしまうかもしれない。

二人して嘆き、スプーンが他人に穢されないようしっかりと注意し守るべきだった己がつい目を離してしまった落ち度を悔い謝り、二度とないことを誓う。キミに罪はない、穢れなどない。一層大切にする。
と、愛は深まる。こともあるかもしれない。

…が、いくらそうやって理性が教えても、以前と同じように愛することはできないかもしれない。
(できるかもしれない。)

この辺だなあ。

ウン。きっと。世間でのこういう事件にまつわるさまざまってさ。


 *** *** ***

 

で。

 

…人にはそれぞれの逆鱗というものがあるものだ。
ということで、私の場合、怒りに目がくらみ全身の血液が沸騰し闇夜に理性がぶっ飛び脳天ぶち抜け世界を滅ぼしたくなる瞬間というのは、

1.中近東のISとか、ムラ社会とかで、女性がものすごい理不尽な拷問を受けて人間扱いされず汚辱と苦悶の果てに殺されてる現実を認めねばならないとき。

2.自分のスプーンが勝手に触られたとき。


ではないかと思う。ウン。