最近私の頭は甘いもののことばかり考えている。
各種クリームコテコテのパフェ(プリン入りなどであるとより一層望ましい。)(以前依怙地になって「パッフェ」と表記する店があって何となくよろしいこだわりであると思っていた。)やケーキ、さくさくナポレオンパイ(クラシックに苺とカスタードがよかろう)、とろりとチョコレートのかかったクリームエクレア、ふわっとさくっとしゅっと溶けるような卵色、しあわせのスフレパンケーキ、ぽってりやわらかい豆大福(つぶあん)、苺やチョコレートやチーズや栗やなんかのものすごくおいしそうないやものすごくおいしい夢のようなお菓子たち。
頭がいっぱいでほかのことを考える隙間がない。
どうかしている。
心身がどこかしら変調をきたしているのかもしれない。
…まあもともとパン屋や菓子屋は好きなんである。
店の前を通りがかるとその幸せの香り、その美麗なる飾り窓の前を無関心に素通りすることなど私にはできない。
で、いつものようにうっとりと(横目で)眺めて歩きすぎてから、ふと思った。
なんだこの「和スイーツ」って用語は。
和菓子と言えばよいではないか。
が、昨今の百花繚乱菓子業界、あらゆるタイプの創作菓子の咲き乱れるこの業界においては、和と洋を折衷した和素材洋菓子、洋素材和菓子が脚光を浴び、著しく発達した。そのため和と洋の境界線が曖昧となり、和素材を使用した洋菓子、和のイメージを持つ菓子をすべて和スイーツという一語で便利にくくる必要性が生まれた、といえばまあそういうことか、と頷ける。
またこれは古臭く地味で堅苦しいイメージの伝統和菓子に軽やかで華やかな流行やお洒落さ、モードを取り入れるための経済的戦略のための語でもある。
…市民権を得て久しい言葉である。スイーツ。
で、これは果たして日本語の「甘味」とどう重なりどう異なる言葉なのか。
語義通り受け取れば双方甘いもの、甘い菓子ということできちんと重なるはずの語である。
が、文化的背景から考えると微妙に違う気がする。
大福や団子(甘い小豆餡)は甘味と呼ばない、ということはないが、大体が茶屋で扱うべき和菓子であり、煎餅や甘辛団子等と共に「お茶請け」に分類される。菓子ではあるが普通一般に甘味とは呼ばれない。甘味処と呼ばれる専門店が扱うのは主としてあんみつ、みつまめ、ぜんざい、汁粉等の汁ものである。
そしてぜんざいやあんみつの事を普通あまり和菓子やお茶請けとは呼ばない、やはり甘味である。
これらすべてを和スイーツは一括する。白玉小豆抹茶ミルククリームあんみつも抹茶小豆ロールも栗羊羹も栗饅頭も(オレは栗が好きである。)卵と味醂、蜂蜜の滋味馥郁たる福砂屋のかすていら(父の好物である。)も等しく和スイーツなのだ。そしてそこで初めて華やかな一流パティシエの創作洋菓子と同じフィールドに立つ資格を得る。和菓子職人がパティシエに変貌する瞬間である。
またここで流行や創作、新しさや個性を競うフィールドにある単なる「和スイーツ」と「伝統和スイーツ」という峻別が生まれる。
和菓子職人かアートなパティエシエか。マイスターかアーティストか。或いはその双方の真髄とは果たしてなんなのか。伝統芸能における一見個性を圧殺したところからにじみ輝き出る個性と伝統の関係、創作という要素。アートという言葉はそこにどう関連してくるのか。
…とかなんとかいう問題意識はさておいて。
乙女の牙城とされ、スイーツ(笑)とその気取ったブランド虚栄を孕んだ商業主義に踊らされる愚かで浅薄な少女趣味を揶揄され蔑視され、スイーツ男子なるつまらない言葉が派生し、…求道としてのスイーツは商業主義に穢され貶められた。コンビニスイーツは高級菓子を模倣しその権威を借り、職人たちは大企業の資本に魂を売る。
しかしその結果としての大衆に手の届く甘い夢が実現し、街には麗しいスイーツが咲き乱れているのだ。甘いファンタジー。(昨今流通しているファンタジーというこの語にも個人的には忸怩たる思いがある。これはまた後日。)
…だからさ、何が言いたいんだ自分。(わからなくなった。)
ええと、そうだ、つまり言いたかったことはだな、死ぬ前に一度、こないだKITTEで行列してた千疋屋の限定苺のスペシャル苺パフェと資生堂パーラーの無花果パフェと吉祥寺アテスウェイのモンブランとHERBSの苺とチョコレートのケーキ(苺のチーズケーキでもいい)をだな…。
とかそういうことを思っていられれば、とりあえず今日を生きていける、ような気がするんである、ってことなんだよ、ウン。