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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

銀河鉄道の夜、あれこれ。

読んだ本 雑記

去年、友人の息子さんの読書感想文に関して質問されたことがあった。「銀河鉄道の夜」に関して。

この日の記事ね。

さっきメールの記録で探し物してたら、そのときの答えのメモがあったので、あげておこうかな、と。

 *** ***

①雁を食べたらなぜお菓子の味がしたのか。

まず、この銀河鉄道宇宙(ジョバンニの夢オチとなる幻想世界)では、すべては象徴的なものである、形而上的なるものであるとして意味を考えた方がいい。

この「鳥捕り」の意味はものすごく議論されてて、難しいんだけど、だいたいが「市井の商売人、俗人(尊敬できるわけでもないがごく普通に親切な人)」のイメージ、その象徴として登場しているという風に考えてもいいんじゃないかと思う。

ジョバンニが馬鹿にしつつ、その人の差し出したものを享受しているという後ろめたさや憐みのような気持ちの表出は、賢治が、俗人、大いなるもののことを考えず、ただ閉ざされた目の前のことだけ、ごくあたりまえに繰り返す日々を稼ぐ人々への複雑な思いを表現してる、とかね。

で、どうしてお菓子になるのか。

賢治が天上世界やファンタジー、岩手県でなく楽しいファンタジーワールドとしてのイーハトーヴォを童話として描くとき、そこの食べ物は、日々の身体が生きるための糧(穀物や肉、食事的なもの)ではなく、むしろ心を喜ばせる夢の力のたべものが選ばれる傾向がある。果物や、お菓子。

タイタニック号から乗り込んできた姉弟のシーンでは子供たちのために、ひとりでにくるくると皮がむけてパイのように食べられるりんごが出てきたよね。別の童話だけど「ひかりのすあし」での神さまの差し出す魔法のチョコレート、妹の詩をうたった詩「永訣の朝」では愛妹の魂の天国での食べもの「天上のアイスクリーム」を祈る。(異稿ね。あとから「兜率の天の食」っていうかっこい言葉になおしたりしてる。どっちも賢治らしい。)

だから、ここでの食べ物は、現実の、なまなましい残虐さをもった生き物の肉としての糧食、鳥ではなく、天の川がぼおっと凝ってできた観念としての鳥、その自然の一部としての美と恵みのイデアの部分だけとりだした心の糧として表現する。肉を食う残虐さを浄化した、肉体の原罪の持つ矛盾を超えたところにある、イデアの食べもの。純粋に甘い心のよろこびのチョコレート。(ハーゲンダッツのCMじゃないけど、「幸せだけでできている」。)

賢治の時代、チョコレートっていうのはすごく特別で貴重な食べ物で、すごいお金持ちがたまにしか入手することができない、ってレヴェル。決して日常のもの、腹を満たすための食べ物じゃない。賢治の作品の中によく出てくるよ。特別の食べ物として。


②なぜジョバンニだけが特別な切符なのか。

ズバリ、主人公だからです。

…っていったらそれでおしまいなんだけど、カムパネルラもかおる子たちも、みんな死者、或いは幻想世界の住民。それぞれ、死後の国、(あるいはそれはキリスト教の国)へ、その行き先の定められた切符、或いは鳥捕りや灯台守、他の、日々の生活に埋もれ仕事を定められた毎日を生きることを受け入れた人たちの人生を象徴する切符。

でもジョバンニが持っているのは限りなくただひたすら真実を、愛を、ただしいものを求める心、それはひたすら無限の可能性。果てない探求のための切符。死者たちを見送り、生活者を観察し、その人生を学び、それぞれの「ほんとうのさいわい」を考える。さまざまのひととその駅を見ながら学びながら真実を探りながら悩みながら現実を生きつづけなければならない者。

…っていう切符。こんな感じでどうかな。

「こいつはもう、ほんとうの天上にさへ行ける切符だ。天上どこぢゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次なんか、どこまででも行ける筈でさあ…」

ただしきものよきものを探し求める心の、そして知の力、それはあらゆる可能性に開かれた力である、と。

③本当の神様はたった一人なのか。

クリスチャンの青年とジョバンニの神さま談義があったよね。

「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑いながら云いました。
「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです。」
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」

かみ合ってない。「ほんとうの」「たったひとりの」の定義が食い違っている。

クリスチャンの青年にとっての唯一神はキリスト、エホバ、創造主。
だけど、ジョバンニの神様は…否定形でしか語ることのできない、ただ、なにか絶対のもの、これ、と言ってはいけない真理、この世界を何か美しい「法(ダルマ)(論理)」で統べている、その世界の在り方そのものの「正しさ」への信仰、或いは、祈り。

これは賢治の作品から例を引くと限りないし、あんまりにもでっかすぎてここでは簡単にしか言えないけど、銀河鉄道の夜の初期形(ブルカニロ博士編)」のこのへんは参考になるんじゃないかな。(これは初期形とかいわれてる、いわゆる異稿。出回ってる「最終形」では最後のこの理屈っぽい博士んとこは削除されてる。)

「だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひ とのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがい ゝ。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもい っしょに行けるのだ。」

「あゝ、ぼくはきっとさうします。ぼくは どうしてそれをもとめたらいゝでせう。」

「あゝわたくしもそれを もとめてゐる。おまへはおまへの切符をしっかりもっておいで。そ して一しんに勉強しなけぁいけない。おまへは化学をならったらう。 水は酸素と水素からできてゐるといふことを知ってゐる。いまはだ れだってそれを疑やしない。実験して見るとほんたうにさうなんだ から。けれども昔はそれを水銀と塩でできてゐると云ったり、水銀 と硫黄でできてゐると云ったりいろいろ議論したのだ。みんながめ いめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれど もお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだ らう。それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。 そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉 強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考を分けてしまへばそ の実験の方法さえへきまればもう信仰も化学と同じやになる。」

あらゆる宗教のもつ美しい部分を否定することなく、その主観の相克による倫理の相対性に苦しみながら、そのレヴェルを超える、矛盾を止揚する多元宇宙(この世界モデルは仏教的)(インドラの網、と呼ばれる宇宙構造だ。)すべてを統べるイデアのレヴェルへ、その定義を、科学としての絶対の世界観を求めていたんじゃないかな。

ブルカニロ博士の最後の科白はこれ。これはさっきの切符の話ともつながってくる。少年や未来に託した祈り、のような賢治の心の熱さが伝わってくるようだ、なんて思うよ。

「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中で なしに本統の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて 行かなければいけない。天の川のなかでたった一つのほんたうのそ の切符を決しておまへはなくしてはいけない。」