酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

千と千尋の神隠し

金曜ロードショーつい観てしまった。
まあね、やっぱりなんだかんだいって千と千尋、おもしろかったですわ。
 
楽しげでわくわくするような怪しいファンタジーに満ちた街の風景、夜の世界と昼の世界の鮮やかな反転、水と空と雲と光の美しい描き方。
 
その光の色、その風景。懐かしいような切なさの、記憶の地層の最下層を切りだしてきたような奇妙に明るい永遠の真昼や薄暮(心象風景なんだな)のこの映像のことを考える。風景、そして動きの中に、リアルとは異なる表現の可能性は見いだせる、そのアニメーションの可能性を最大限に生かそうとする自覚的なテクニックの駆使されたアニメーションやCG独自の躍動感。それは物理的現実というよりは脳がとらえた意味としての動き、とでもいうべき(日常生活の中のリアルではありえない、イメージとしての躍動感。スピードとか人物の動きとかね、夢の中の、脳内で翻訳されたものの再生産、…意味のレヴェルなんだよね、言わば印象派としての動き。いわば現実ではない真実。この躍動感に関しては、ディズニー映画に如実だけど。)
 
銀河鉄道のモチーフが、銀河を水によみかえて再現されてるんだ、と思ったり、ハウルのイメージ(「ハウルの動く城」)と通じるハクの飛行や闘いや、魔法や力を求める若者のイメージ、その残虐な代償の描き方の意味するもの(監督の思い入れ、メッセージ色の濃いもの。)感じたリ、千尋結局ナウシカやん、とか思ったり。(カオナシに「森(おうち)へおかえり、」的なことを言う。)(あるべき場所へいるべき場所へ正しいところへ帰りなさいっていうのは宮崎駿のテーマなんかしらねい。)(「力」を求める若者の過ちの大きすぎる代償による寂しさや破滅は、ソフィーや千尋、女性の愛の力によって救われる、というお約束なテーマが宮崎駿アニメーションなのかもしれぬ。)そして、古来の日本のもののけたちの魅惑的な存在感、これらプレテクストの折り込み方。
 
銀河鉄道的な読み込みで言えば、片道切符の銭婆への家の道行きは、異界(「ムコウガワ」異次元、或いはそれは死の世界。)への旅。いや、さらに言えばそれはここでは、人間界ー妖怪たちの世界、という単純な二項対立の地平をも突き抜け超えてゆく、第三項としての「その外側」を志向して走り続けるメディアの可能性を示す構造となっている。
 
沼の底、行きついた果て、あの銭婆のおうちにみちる静かな死後未生の世界のイメージ。それは、世界以前のカオスに近いところにいる母(祖母、母の母、大いなる母の胎内のイメージがある。)の下にある安らぎ感。
 
…このイメージの連なりの構造は確かエンデの「果てしない物語」にもありましたな。物語の結末近く、何もかも忘れ失い疲弊した敗残をさまよい、もといた世界へ戻る方法を探すバスチアンが、束の間、「アイゥオーラおばさま(「変わる家」の主、植物の精のような女性、その身体は常に生きた植物に覆われ、花に覆われ、果実を実らせ、疲れた子の飢えを満たし無償の愛で包む。バスチアンのすべてを肯定する。安らぎの「母」だ。)」のもとで甘やかされ愛おしまれることで生きるための気力、何か、愛への思い、のようなものを得てゆく章があった。だがそれはやはり束の間の休息。変わる家は人を変え、送り出す運命の場所。そのままとどまり停滞する場所ではない。死と再生の場所。)
 
これを初めてDVDで観たときの感想、ここにアップしていた。(大昔だぞなもし。)やっぱり今ではこんな簡単なとこだけではなく、そして少し違う考えかも、とか、もっともっといっぱいいろんなことあるよな、と思ったりする。

千と千尋の神隠し1