酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

ダイバーシティ

明るく晴れた日曜日、静かな昼下がりの中央線。

隣席には雑誌を開く上品な白髪の年配女性。
ちらりと覗くと、熟読されているのは、「たんぱく質勉強会のお知らせ」と「タラと長芋の揚げボールレシピ」の書かれた頁である。最近の研究によると、長生きに大切なのは動物性蛋白質なんですな…

昼下がりの金色の光が、ふいっと深く優しく切ない心を孕んだ、ような気がした。とろりと濃い、黄昏の蜂蜜色。

正面を見上げてみると、力強く仁王立ちしている男性。「銀と金」コミックスに没頭。裏社会で政治経済絡めてダークに活躍する男たちのファンタジックなストーリーらしい。

こういう美学好きだねえ、男性一般というのは。だから現実のこの世もこうなっちゃうんだよな、などとぼんやり考える。無表情な髭面の奥で、ハードでエキサイティングなわくわくの中にいるんだろうなあ、カレ。まあ、つくづく他人の美学につき合わされたくなんかねえやな。

それにしてもつくづくみょうちくりんな絵じゃのう。鋭さを強調する直線で極度にデフォルメされた奇妙な目鼻。少女漫画のまつげばっさばっさのキラキラおめめもうどうかと思うが。…まあどっちもどっちか。(どうでもいいけど私の最近の読み飛ばしヒット(あんまり考えないで楽しく細切れに読めるもの。)は「よしふみとからあげ」です。「聖☆おにいさん」とかね。永遠の大好きはますむらひろしアタゴオルシリーズだけど。ますむらひろしの作品はほとんど全部持ってるぞ。)

彼の横には、ピンクのハニーポップコーンのトートバッグ抱えて大きなクリームパンかじる女子高生。クリームパンとってもでかい。

こういうティピカルな女子高生にクリームパンは実によく似合う。

クリームパン最後に食べたのはいつだっけなあ。阿佐ヶ谷の好味屋の好きだったな。げんこつみたいなかたちのつやつやこんがりふわりのパンにケーキ用カスタードクリームがたっぷり詰まったやつ。スーパーで売ってるポリ袋に入ったやつとは違うよ。あの、やたら柔らかくてにちゃっと甘い添加物パンとはな。ぽっかりあいた空洞にヤマト糊みたいなクリームがちびっとなすられてるアレ。ありゃ工業製品だ。(実は昔結構好きだったけど。)

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…不意に不思議な心持ちに襲われる。
こんなにも異なる世界を背負いながら、おそらく全く異なる風景を眺めながらここで同じ時空間を共有している。それぞれの物語を生きていても、同じ日本語を解し、一筋の細い糸を辿るようにして意思疎通をすることすらできるのだ、われわれは。それは永遠に完全理解には行きつかない。にも拘らず、何かのかたちを以て関わりを持つことができる。対幻想、共同幻想吉本隆明)のフィールドを共につくりだすことができる…というようなことを奇跡のように奇妙な違和感とともに感じたのだ。

(公園や街中や、そして特に電車に乗ったりしたときよく襲われる、この感覚が私は大好きだ。人はみなひととき銀河鉄道の同じ車両に乗り合わせ、それぞれの駅で降りてゆく、というような世界のありかたを、その構図を頭の中は描きだす。)

で、多様性の基礎についてしみじみと考える。昨今あれこれ言われているダイバーシティを語るにはこのあたりのことから考えねばならぬのではないか。

他者を理解する、あるいは理解できないことを容認し認め尊重する。
大切なのは、距離感、認め合い、尊重、その先なる、生かしあう場の構成。

…オレね、我が母校都立T高校のスローガン、卒業してからの方がしょっちゅう思い出すんだよ。「自主・自立・連帯」。

そして、それとセットで記憶されている、「自明の信頼と清潔な無関心」という言葉。

これは、山口 泉「ノート 水鳥のいる公園」の一節。水鳥を観察しているときの、水鳥たちの生態の在り方を、次のように考察した一節の中の言葉である。

「それは,互いに相手の存在を知覚しながら,しかも支配することもされることもない,傷つけることも傷つけられることも,脅かすことも脅かされることもない,自明の信頼と清潔な無関心に支えられ,他の生命と自分との関係というもののありようが,眼に見える距離と運動,さらに空気のなかのさまざまなディテールをもって確かめられるからである,と」

「清潔な無関心」。
なんと大切な言葉だろうか。そして極めて困難な。

一見、信頼、連帯に相反するものであるかのようでいて、決してそうではない。
自立を尊重し合うための「距離感」の大切さを如実に顕わした貴重な言葉である。

これは下衆の反対語といってもいいのではないか。「高潔」とまでは気負わない、ひどく自然でうつくしい存在の仕様を思う。高潔は、少し疲れる。矜持に通じるひきつれた修行僧のような厳しい表情の美学をまとっている。悲壮な禁欲や自己犠牲やなんかに通じるヒステリックな精神のリキみがある。

…偽善と偽悪の関係のように、ここで高潔と下衆とは同じひとつの論理と価値観にとらわれたままのウラオモテの現象に過ぎない。どちらかの否定のための両極の提示。

清潔な無関心、はそれを止揚する可能性を探る第三項だ。


そう、高潔なのは疲れてしまう。24時間タタカエマスカ。

オレほんとダラダラでグズグズで疲れるのって心身ともにダメなんよ。疲れるのっていうのは、自分かどっかの誰かのどこかに、無理や歪みや無意識の隠蔽やなんかがあるから疲れるのだ、て、思っている。

ゴンゴンゴンゴン加速して、滅亡に向かって進化発展パワーゲームなんかしなくてもいいのに。人間、一度味わった進化の面白さからは抜け出せない。後ろには戻れないんだからさ。もっとスローダウン、テゲテゲゆるみをもって楽々生きていけたっていいのに、世の中。立ち止まったら途端にドロップアウトということになってしまうこの社会。絶えず前向きキラキラ輝いて泳ぎ続けないと死んでしまうイワシのようだ。


なんかとにかく、周りに高潔すぎる人が多くてなんか困っている。中島みゆきの「蕎麦屋」(世界じゅうがだれもかも偉い奴に思えてきて/まるで自分ひとりだけが いらないような気がするとき♪)な気持ちなんである。(蕎麦屋たぬきうどんは食べないけど自分。)


…「清潔な無関心」。エゴや冷淡さと背中合わせでありながら絶妙に尊重と連帯への可能性の橋を繋ごうとするとき、この言葉は 相手を己の価値観の中に取り込まない、決めつけない、裁かない、支配下に置こうとしないという意味で、大きな意味をもつ。

尊重、ということは、どこかひやりとした冷淡さをも含んだ「あかるくつめたいとこ」(宮澤賢治の想像した貴い仏界のイメージ)に近い感触にものなのかもしれない。

自立は孤独か?
その否定としての連帯がある。

…難しい。

そのバランス感覚が、ダイバーシティに関するさまざまの問題を解決するための方策の、その基礎的地盤として、通奏低音として、必要となる概念である。

ような気がする。