酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

ノーベル賞

今年のノーベル文学賞は、まずはいろんな人が春樹受賞問題についてあーだこーだ言ってていろいろ楽しかった。

とりあえず思ったことは、純文学と通俗文学の境界線についてあいまいになってる定義を問い直すときなんじゃないかなあということ。あとノーベル賞ってなんなんだってとこを。

あれこれ混乱している。
世界じゅうで、さまざまな価値感がぐちゃぐちゃに乱れた価値基準崩壊の乱世になってる感がある。

ここで大切なのは、双方の、歴史と現代におけるその意味の変遷、その文脈を押さえておくこと。新たに定義しなおしつづけること。この辺を曖昧にしたままのあーだこーだは何を言っても土台のない砂の城、不毛すぎる。

逆に言うとこの論議が、現代がそのそもそもを問い直すべき「そのとき」なんだっていう自覚と発見の発想になる、そこにつながるトリガーとなるんだったら、これは不毛なものではなく、むしろその素晴らしい機会であると思う。

ツイッターで音楽ツウな高校の先輩がこんなこと呟いてた。

ボブ・ディランは、有名な賞などを受けて、時代に定着させてしまわないほうがいいんじゃないのか、 などとひねくれたことを言う。」

「以前だったら泡沫候補って呼ばれてたような人がど真ん中にいたりするんで、中心と周辺が逆転した世の中に生きているんだと思ったが、すべてのものが周辺化してしまったといったほうが、正確なんじゃないかと思った。つまりこれは、空洞化というものなんでしょうか。」

茂木健一郎は、ノーベル賞の選考基準の冒険性を大層評価していた。これはおそらく「話題になる」ということそのものについての評価でもあった。一石を投ずるということ。賛否の論議が巻き起こることを予期した、或いは「それを期待した」決断である、新しいパラダイムのための世界中の思考の、議論の活性化を呼び起こすための英断であると。

この後、ボブ・ディランはマスコミの取材に取り合わず連絡も取れずツアーを続け、それに関して何らのコメントもしないという「ノーベル賞スルー」というファンをシビれさせるかっこよさを披露した。(ちなみに私は個人的には、「やっぱりすごいな、結構好きだな。」と普通に聴くけどそれほど熱狂的なファンではない。iPhone君にアルバム3枚入ってる程度である。)

で、同賞を選考したノーベル委員長のペール・ベストベリィ氏は21日、こうコメントしたという。「無礼で傲慢(ごうまん)だ。」

この煽情的なニュースの見出しで、メディアの狙い通りネットは燃え上がりましたな。権威をかさに着た傲慢。…だけど、これはマスメディア常套のイカサマ報道だ。だって、意図的に隠されたこの続きはこの科白だったんだから。「でもそれが彼ってものだ。」(知ってたさ。)

なんかカッコいいなあ。こういうのって。
とっても粋なオトナな感じがしてさ。

なお、発表から2週間以上も沈黙を続けたのはどうしてなのかという問いにボブは「でも、今はこうして話している」と煙に巻いてみせた。

また、ダニアス教授が授賞発表の際、ボブの作品をホメロスやサッフォーらのギリシャの詩人を引き合いに出して称賛したことについてどう思うかという問いには確かに自分の作風はホメロス的なところもあると次のように語っている。

「確かにある意味じゃそういうところもあるかもしれない。"Blind Willie McTell"、"Ballad of Hollis Brown"、"Joey"、"A Hard Rain’s a-Gonna Fall(はげしい雨が降る)"、"Hurricane"とか、この手の曲は、本質的にはホメロス的だよ」

ただ、歌詞の解釈については「どういうことなのかはみんなが決めればいいと思うんだ。学者とかが、いい答えを持ってるんじゃないのかな。俺にそれを説明する資格はないんだよ。俺には意見なんてものはないんだ。」と説明してみせている。

いざ授賞式、やはり彼は出席しなかったけど、誠意のあるメッセージを寄せている。


文学とは何か、音楽や演劇との関係は、物語と言葉とは何か、という問題に関して、とても一貫した態度をもったカッコいい人なんだなあ、このひと。目のまえの現実と理念の相克をリアルに闘ってきたひとの、こんな風な言葉や音楽に対する透徹した感性というのはそのままトータルに完成した美しい論理を宿した知性なんだ。

全文を訳したものがここにある。

シェークスピアと文学との関係を自分の作品と文学との関係になぞらえてみせたのは詩人ならではの見事な手腕だと思った。文学とは、という問いは自分(ディラン)が答えるための問いではなく、ただ自分が体現してみせる中にソレを読み取る人の「文学」に対する思考(「学者とかが、いい答えを持ってるんじゃないのかな。」)を促すものである、という宣言であるように思ったんである。