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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

話し言葉と書き言葉 その2 三位一体

雑記

眠れないので飲みながらつれづれに書き綴る酩酊君です。

ええと、書き言葉と話し言葉について。

普段から何となく感じていた引っかかりについてである。
…人の話す言葉と書く言葉の乖離、同一人物なのに人格としてその言葉が与える印象が違うという現象についてである。

チャットなどでは見えにくいが、ある程度の長文になってくるとこの現象は如実だ。「ひとり語り」はそもそもが書き言葉的なところに近い。実際、プレゼンだの講演会だのでは、「書き言葉を話し言葉に翻訳する」という逆転した流れが必然である。

ラジオ講座なんかで、いかにもシナリオ通りの科白で「~なんですよ。」「~なんですね。」などと「砕けた口調で話しかけるような文体」を演じる言葉のしらじらしさを思い出してみるといい。なんと不思議に独特な不自然さをもっていることか。顔を持たない不特定多数に対して、いわば抽象に対して親しげに語りかけてみせる不自然さ。パブリックという抽象概念に具体としての話し言葉(パロール)を用いるのは「不自然」なねじれをもってしまうものなのだ。…こうして考えてみると、言うなれば、書き言葉はよりパブリックな性格をもち、話し言葉はよりプライヴェート、というよりはドメスティックな性格をもった言語だということができるのではないか。話し言葉はより厳しく「現場性」に縛られている、ということだ。

「言文一致運動」以前の、文語体としての書き言葉と口語体としての話し言葉の乖離は象徴的なものだ。

実際に文語体で書くわけでなくても、話し言葉と書き言葉では使う文法、ルールが無意識に使い分けられている。例えば内面での思考の流れと会話に顕れている言葉の意味するところの流れとの乖離があるとしよう。そこには言語的重層構造が出現している。話し言葉と書き言葉の乖離の構造はこれに似ている。論理的思考のレヴェルと(言いたいこと)それが実際のコミュニケーションの場に引っ張り出され受肉されたときの、その現場に適応してメタモルフォーゼしてしまったかたち。(TPOに縛られている。)

話す人格と書く人格が微妙にずれていたりすること。これを敷衍すると、それが実は言葉の持つ本質に所以するというところに通じてゆく。例えばリアルでの人格とネットでの仮想人格の関係とかね。

しかし「ずれていたりすることがある」というよりは、寧ろ一致してる方が稀有(というより偶然、あるいは恣意的)であるということをここで私は言っている。いかに話すように話し言葉を綴ってみせても、やはりどうしてもそこには実際にその人が語っている身体性を伴った「現場の言葉」とは微妙だがあきらかな乖離がある。

…そしてしかし、それは、どちらが本当でどちらがうそ、ということではない。(どちらが演出でどちらが本音であるか、ということではない。)身体性を剝奪された書き言葉、というのは全体性を剥奪された、と解釈されがちだが、それは換言すれば身体性、現場性の呪縛から解放された独立した法の下にある言葉であるということもできるからだ。ネットでの人格がリアルでの人格から解き放たれることのできる、その解放のための変幻自在なペルソナであったように。(「書くこと」が、いわゆる「癒し」、心理的病理の治療行為に通じてくるのはこの関係性の構造による。)

そのどちらもがそのひと自身である。このことを考えるとき、私は、なんというのだろう、一種、感動、を覚える。人間のいうもののアイデンティティというものの深みというかワケわかんなさというか。そういう構造的なところに潜む神秘の個所に目を開かれる思いがするのだ。

人間はいくらでもシンプルにもなれるし複雑怪奇にでもなれる。それは分析次第なのだ。人間のどの「層」と「構造」をみるか、という。そして全体性というものを考えるとすれば、それは、ゲシュタルト心理学が主張しているように、要素の集合ではなく、構造を持った全体であるそのこと自体による不可知のプラスαの付加を意味している。



で、この書き言葉と話し言葉の構造とその混乱をソシュールやバルトの考え方にあてはめて分析してみるとどうなるか。

ソシュールが構造言語学でランガージュ(言語)をラングとパロールの二層の構造としてとらえたものに、ロラン・バルトは第三の要素、エクリチュールの概念を加えた。次のようなものである。

まず、抽象的な(文法レヴェル)言語層としてのラングがあり、個的な具体性をもった活用レヴェルとしてのスティル(パロール)(話し言葉)がある。(身体性を伴った発話の「現場」である。)

そして第三の層がエクリチュール、書き言葉。これは「社会性を書き込まれたもの」としての様式化された言語層である。「キャラ」とか「クラスタ」とか、プロファイリング、類型化されうる社会的人格だ。つまり、これを駆使することによって、容易にネット上での仮想人格を演出しうるレヴェルであるということを示す。

すごいな、ぴったりだ。まさにエクリチュール、「書き言葉」というこの語が、言語によって人格を演出する概念となっているのだ。…書くことは、すなわち人格の自己演出、物語演出としての言語であるという定義を導き出すこの言語構造、わくわくする。

言語の、この三位一体構造。

第三項エクリチュール、ってとこの発想が一番おもしろい。大体が、三位一体ってすごくいい言葉なんだとしみじみ思った。

二項対立プラスワンっていうのは基本なんだな。ヘーゲルのテーゼ・アンチテーゼ・アウフヘーベンだって、立体構造をもった三位一体のヴァリエーションのひとつとして考えたっていいのではないか、などと思う。第三項は必ず二項対立の織りなすのっぺりと平面的な論理地平の外部へと通じる、矛盾からの跳躍、革命のダイナミズムを孕んだ動的な要素なのだ。

三位一体、父と子と聖霊にあてはめるとするならば、父はラング、母はパロール、そして聖霊エクリチュールだ。(神とはそのすべての「全体」としてある。)それは、霊と肉と、なんだろう、霊の存在を肉のレヴェルで具現してみせる力、或いは気、動き、ダイナミズム、関係性。(抽象・具体・メディア《ミメーシス》)

そして、全体で一としての言語をこの三要素として分析して考えると見えてくるものとは、ということだ。

ネットでの言辞はほとんどすべてがエクリチュールである。
それら跋扈する「リアル」の現場から解放された言葉の妖怪たちは、ラング、パロールの領域にも影響を及ぼしてゆく。文法は変化し、パロールにはネット用語が応用されて。ヴァーチャルがリアルを多様なものとして読みかえる。…浸潤してゆく。

あたかも、現実が芸術を模倣してゆくように。

私は、楽しいと思う。このナンデモアリの言語の野放図な時代を。
同時に、反動としての、言語を粛正する時代のきな臭さが漂ってくるこの窮屈な時代を恐怖する。

混乱とは可能性だ。ひとりの人間の中の人格の数的無限は、世界の数的無限だ。
顔を合わせ、ボディランゲージと触れ合いをふくめたパロール・コミュケーションと、抽象的なSNSによるエクリチュール・コミュニケーションを合わせて、決めつけることのできない相手の多面性を認めてゆく。より(ワケワカンナイ)相手の人間性への無限に対する感情が、混乱と決めつけへの欲望ではなく、ひたすらの畏敬と愛情であることを、私は、私の幸せのために、祈る。とりあえず。

新たな時代がどう転んでゆくか。

これは次なるひとつの時代のための序章である、と、そんな風に思うんである。