読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

シン・ゴジラ試論「現実対虚構」に関して。(「春と修羅」を手掛かりに)

 
2011.3.11の東日本大震災原発事故。
あの出来事なくしてはこの作品は成立しえなかった。
 
初代ゴジラ第二次世界大戦後9年のあの時代に生まれた原理とこのことは重なって見える。
 
… 昭和29年。核の時代の幕開けだった。実際に行使され、兵器としてのその恐るべき破壊力が確認された。大国間の緊張状態にあって両国で激烈な勢いで発達し たそれら核兵器、核エネルギー開発の時代。この年の3月にはビキニ諸島での水爆実験が行われ、第五福竜丸死の灰を浴びるという事件が起こっている。人類 が地球環境を破壊しもろともに滅亡するというヴィジョンが未曽有のリアリティをもって立ち現れた時代。
 
人類にとっての世界そのもの、未来そのものの存在の確かさが根底からくつがえされた。滅亡のリアリティの読み込みと共有である。
 
それはすなわち恐怖と危機感の時代であり、倫理なき科学技術の暴走への危惧の萌芽の時代であることをも意味した。権力争いや欲望、盲目的な知識欲の行きつく先、その愚かさの果てが見通せるところに来た。…警鐘を鳴らさなくてはならない。
 
その危機感のムーブメントの流れの中に生まれた「怪物」。
被爆国日本の世相において、そのような驚愕と危機感を鮮やかに示しだした怪物がメガヒットエンタテイメント、初代ゴジラだったのである。
 
 
…とすれば、この「シン・ゴジラ」の脅威のリアリティは、あの震災と原発事故以後の国全体の危機への自覚の共有、その圧倒的なリアリティによって成り立っている。
 
あの震災の日から5年が過ぎた。
 
ある日突然、圧倒的な力で日常が破壊されるという恐怖。突如巨大な悪夢が牙をむき、日常現実を木っ端みじんの破砕するというリアリティ。
 
触れるだけで飛び上がるような痛み、生々しいあの恐怖が、国全体の共通認識として植え付けられたあの日から、5年。
 
我々の多くは、その痛みに反射的にヒステリックな感情を噴出させてしまうことなく、多少の客観性をもった表現を許されるところに来た。だが決してそれは、恐怖と痛みは、風化していない。
 
シン・ゴジラは、その絶妙のタイミングをもって現れた映画であるともいえるのかもしれない。なまなましいリアリティから決して離れることなく、そこからその 意味を冷静に未来のために考えてゆく、知として深化させてゆくための起爆剤、或いは歴史の中に置かれようとするマイルストーン。痛みと恐怖のリアリティに 立脚したところから始まる未来を模索する思考、思想の構築と深化をそれは求めたものである。
 
 
だが初代とシンが決定的に異なるところがある。
それは、破壊される街、破壊される日常現実の位置づけだ。或いは、その価値。
 
初代ゴジラにおいて、破壊対象となった街は、人々が戦後やっとの思いで復興を遂げてきた街、庶民の貴い平和である。かけがえのない貴重な日常現実、暮らしそのもの。だが、世界じゅうに蠢く戦争への指向、科学技術の暴走が、それを根底からくつがえす暴力的な災害、ゴジラを呼び起こす。
 
呪われ、呼び起こされたあらぶる神の理不尽で圧倒的な暴力を前に、なすすべもなく蹂躙される被害者たちの悲劇や嘆きが描かれる。
空襲を思わせる突然の脅威、防空壕を思わせる避難所。何の重みも意味もなくちっぽけな虫けらのように目の前で奪われてゆく大切な人々の命、蔓延する悲痛な嘆き、廃墟。
 
それは先の戦争のなまなましいリアリティ、身体性としての恐怖である。
 
作品中、女学生たちによって、被害者のための鎮魂歌が歌われるシーンがある。…これは、そのまま戦争犠牲者への鎮魂の歌だ。この映画は、ある意味哀悼と鎮魂のための作品であるといってもよいかもしれない。
 
 
翻って、シン・ゴジラ
ここで破壊されるものは何なのか。
 
破壊された街は、その日常は、初代ゴジラの破壊した街とは物質的破壊という現象では同じかもしれない。だがその持つ意味合いは大きく異なっている。
 
ここで中心に描かれるのは人々の悲劇ではなく、政府の対策に焦点を絞った「闘い」のドラマであり、ここで被災者への鎮魂歌は歌われない。このことは、二つの作品の中で破壊されたものの意味の違いと大きく関わっているように思われるのだ。
 
この「破壊されたものの意味」を、映画のキャッチコピー「現実対虚構」という闘いの構図の意味から考えてみたい。
 
 
●「現実と虚構」
 
震災、原発事故。対応に追われる政府、その頼りなさの露呈。あのとき、ニュースで流される政府や対策本部関連の対応コメントにおいて、「想定外」という言葉が、繰り返し繰り返し使用された。「まさかこんなことが。」皆が共通に感じた言葉があふれ出た。
 
「当たり前に永遠に続くかと思われていた平和や爛熟した物質文明の繁栄を誇る日常が、ある日突然たやすく失われうるものである。」
 
この現実味を帯びた危機感の発揚、そしてそのドラマティカルな共有。作品はあのときのこの衝撃を、詳細で綿密な細部の描写、行き届いた小ネタのリアリティによってえぐりだす。(作品中、この「想定外」やアナウンサーの絶叫する「信じられません、まったく信じられません!」の科白は繰り返し使用されているもの である。)(そして、細部にわたるこの綿密な小ネタの仕掛けこそが「あの日々」をまるごと共有した我々をこの作品の中のなまなましさの中で再び結びつける 役割を果たしているものなのだ。)
 
あれは ぬるま湯の幻想が打ち砕かれた新しい時代のはじまりだった。
 
突然の災害によって破られたぬるま湯の幻想。これは、作品の、突然のゴジラ来襲によって破壊された日常現実、という構図と重なっている。
 
…とすれば、或いはゴジラによって破壊されたのは、「現実」だと信じていた幻想(虚構)だったのではないか?
 
…ではいったい何が日常現実という幻想を構成していたものだったのか?
 
この映画のキャッチコピー「現実対虚構」は、「現実」には「ニッポン」、「虚構」には「ゴジラ」とルビがふられたものであった。 
 
一体その「現実」ニッポンとはどこにあったのだろうか。今まで現実を構築していたと思っていた「情報」は一体どこからどこまでが「現実」と呼べるものであったのか。
 
「現実」とはなんなのか。
 
「現実と虚構」というこの問題提起のありかたは、作品中意味ありげに登場した宮澤賢治の詩集「春と修羅」の暗示と関わっているように思う。
 
 
 
シン・ゴジラは、小さな船の発したひとつの小さな異変のサイン、牧博士の謎の失踪シーンから始まる。
 
博士がその最後に残したものは、船に残された折り鶴と詩集「春と修羅」ときれいに揃えられた靴だった。
 
この折り鶴のモチーフは伏線となって、アメリカ側からもたらされた博士の謎の暗号資料を解読するカギとなった。では春と修羅はなんだろう?
 
放射能関係の事故で最愛の妻を失い、放射能を無害化する研究を行っていた博士が、どのような修羅を生きていたかを考えてみるのが妥当だろう。
 
修羅とは、本来正義を求める神であるが、己の正義に固執しそれをこじらせたために道を外し、ひたすら矛盾の苦しみのどうしようもなさの中で闘うしかない者、そしてその果てない闘いの場所の意味である。
 
春と修羅」はうつくしい春の風景の中にありながら、心象的には苦い怒りの世界にいる「すべて二重の風景を」ゆく、この矛盾と怒りの修羅としての自己を描く心象スケッチだ。
 
…これはまさしく虚構と現実の二重写しの構造ではないか。
 
妻を失い苦しむ牧。彼は世間的には隠蔽され封印されながら確実に存在する放射能と核の恐怖をリアルに感じ続け怒り続け苦しみ続けた。この修羅としての己の世界と、無知で無神経な人々がそれに気づかず、うわつらの消費文明を謳歌している、豊かさと幸福の夢にあふれた華やかな世界、その春の景色との二重写し。
 
そのどちらも間違っているのだ、と修羅は知る。
「 まことのことばはここになく/修羅のなみだはつちにふる」
 
…そして、ゴジラはその二重の風景の接点を暴力的に作り出す、荒ぶる神だ。春の風景に殴り込む修羅。交わることなく並列していた二重の世界の均衡を破る力、二項対立のフィールドを作り上げる起爆剤。
 
牧博士が自らゴジラを目覚めさせる起爆剤となった、という示唆はこの詩集の存在においてその説得力を持つことができる。すべては、第三項、止揚された「まことのことば」の方向を模索するためであるとすれば。
 
エネルギー問題を解決する福音であると同時に、滅亡、盲目的な破壊の凶器である荒ぶる神。それは善悪の彼岸、世界に秘められた『純粋な力」の顕現。破壊と再生のシヴァ神、あらゆる宗教が語る世界の終わりの日を体現する使徒であるところのもの、シン・ゴジラ
 
その代償の部分を隠蔽したまま理想の「春」の幻影をつくりだしていた現代日本のシステムの歪みは、作品の前半部、アイロニカルに震災の際の政府や報道陣、 人々を戯画化して描写したところに示されている。「想定外」の事態には対処しきれない政府の後手後手に回った大慌ての対応のお粗末ぶり、体面を重んじ責任 を逃れる体制の澱みと歪みの露呈。非能率的で保守と澱んだ権威主義に硬化したあらゆる権威のシステム。
 
このシステムの上に営々と紡がれてきた街の営みがまるごと、オモチャのようにやすやすと壊されてゆくのがゴジラの圧倒的な破壊シーンだ。実際のあの震災の経験から賦与されてしまったそのリアリティの重みは我々観客にとって、まずは…、問答無用の恐怖だ。
 
だが、それはまたまごうことなき陶酔でもある。恐怖とセットの、ぞくぞくする、陶酔。どこかに感じて続けていた、己を限り縛る日常の歪み、澱み、閉塞。その呪縛から解放される感覚。一つの現実の崩壊。
 
カタストロフ。死がなければ再生はない。まったくあたらしいところに、ここではない正しいところに生まれ変わりたい。
 
そして、そう、奇妙なほど、この映画の中での空と海の描写は美しいのだ。無条件に心に沁みる。無常の果てにある美しさ、どこかにある絶対のまことの場を暗示するような。
 
春と修羅「序」
 
シン・ゴジラ」においては、その圧倒的な荒ぶる神の対処を、初代ゴジラのように限られた天才博士ひとりには請け負わせない。 また、初代にみられるような災厄と恐怖のアイコンとしてだけでないゴジラ、(核)(自然エネルギー)(神)の「両義」性への視座もまた明確に確立されている。
 
それゆえの葛藤がマキ博士の「春と修羅」なのだ。彼は賽を投げたものとして、既にゴジラ側(虚構)に移行した。
 
「私は好きにした。君たちも好きにしろ。」
 
彼はこの言葉と共に失踪する。純粋で莫大なエネルギーの両義の可能性を、まずは、いまあるかたちの「現実」に対する破壊パワーとして投入する、だかしかし、 同時にその向こう側の福音への手がかりを残した。ゴジラの中に秘められた、エネルギー問題を解決する可能性を秘めた新元素、正しい倫理のもとにそれが運用される科学の力の勝利への祈り。…賭けたのだ。
 
ゴジラに血液凝固剤を飲ませて凍結させる作戦の「ヤシオリ作戦」というこの命名は非常に示唆的だ。日本神話で、荒ぶるヤマタノオロチを酔わせて退治する、その酔わせるために用いられた酒「八塩折之酒(やしおりのさけ)の名から来ているからだ。…オロチとの闘いに勝利したときその身体から三種の神器のひとつ、 クサナギノタチが得られる。ゴジラとの闘いに勝利したとき、我々はその身体の組成から全く新しいエネルギーの可能性を秘めた、新元素の秘密を知ることができる。)
 
一つの疲弊した(我々にとって)リアルな「現実としてのニッポン」を「虚構ゴジラ」によって完膚なきまでに叩きのめされた後、新たなる世界、新たなる現実、まことのことばを目指してそれを打ち立て守ろうとする者たちは、その残されたメッセージの手がかりを頼りに闘う。
 
 新たなる現実構築のために仮設される能率・能力主義の日本政府。内閣官房副長官矢口を中心とした「巨大不明生物特設災害対策本部」の活躍。
 
そしてこれは 個々の人間ドラマではない。個を滅したところにうまれる群舞の美を描く。理想的に機能するシステマティックな組織の生み出すネットワークの力の描写に焦点をしぼり、個々の人間ドラマを排除する。ひたすら現象として純粋な「力」の象徴としてのゴジラ(虚構)に向けて、その純粋な「力」をもって闘う、その小気味よい流れと動き、一種「虚構対虚構」ともいえる物語性とエンタテイメント性。
 
パーツとしてのキャラクターが各々のフィールドで各々の役割と有能さをもって小気味よく活躍し、素晴らしい理想の連携プレイを見せる。指令部から実行部まで、よどみなく美しい法、論理に制御されてすさまじい情報量と共に息つかせる間もなく圧倒的に作戦は流れてゆく。律動的な美学に彩られた作戦実行の現象が淡々と描かれる。ゴジラの破壊シーンと並ぶ、この映画の見せ場だ。
 
…少し深読みにすぎるかもしれない、しかし私はもうひとつの「春と修羅」がここに重ねられているのではないかと思うのだ。
 
春と修羅「序」。
 
「わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です」
 
システムとして機能するひとりひとりの人員は、相互ネットワークのひとつの灯りとして一つの全体を構成するパーツだ。…これはおそらくインドラの網に繋がっている。理想の、真実の宇宙の姿。現実の相対性を意味するものである多元宇宙。
 
歪み澱み疲弊した日常、「現実ニッポン」の破壊を受け入れ、まことのことばを目指した新たなる現実(或いは新たなる虚構)としての世界、新生日本、その再生をかけて闘うものたちの総体としてのドラマ。
 
「スクラップ&ビルドでこの国はのし上がってきた。」
 
ラストシーン、内閣総理大臣補佐官、赤坂のこの科白は、理想をあきらめないものとしての「虚構」が常に新たなる「現実」をよどみなく限りなく再生させ続ける力なのだというメッセージであるようにも思える。現実とは、常にまことを目指す自らの意志でその情報を選びとり、総体として「作り上げる」「生成し続ける」ものである、と。
 
初代ゴジラは戦死者の追悼と鎮魂を歌いながらの未来と再興を願う「当時の今」のための映画であり、シンゴジラは歪み澱んだ世界を切り裂き膿みを吐き出させるカタストロフ、破壊と再生のための「現在としての今」のためにリアルタイムの警鐘を打ち鳴らしている映画だ。
 
ゴジラのすさまじい破壊シーンのクライマックス、今在る姿の東京が絶望に包まれた瞬間、鷲巣詩郎の音楽が陶然となるほどの崇高な神聖さを奏でる。まるで讃美歌のような。…破壊神への普遍的な欲求は誰の心のなかにも潜んでいるに違いない。それは神の国、新たなる世界の再生を意味するものであるから。