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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

キリン4

朝方、どろどろとした悪夢の断片を渡り歩いた。
寝た気がしない。頭の芯がしんしんと痛み、足元がおぼつかない。
 
朝はいつも乾いた絶望とともにやってくる。悪夢はデフォルトだ。いつも同じ、おなじみのシーン…だが、その禍々しさに慣れることは決してない。
 
毎朝ピチピチに生きのいい新鮮な絶望だ。枕に顔をうずめ俺は小さくうめく。
 
這いずるように起き上がり、顔を洗う。底なし沼の泥のような悪夢の残滓はうっすりと全身にからみついたまま離れない。うすぐろい俺は家を出て、うすぐろく勤め先に向かう。ルーティンは救いだ。
 
…あの日から繰り返し見るその朝方の夢。
 
飼っていた犬が死んだのだった。だが俺が悲しむ前に母が泣いた。そして父と姉がそっと母に寄り添った。ふたりして顔を上げ、奇妙な灰色のまなこを光らせて俺を見た。
 
俺は逃げた。
 
わあ、わあ、と、叫びながら、俺は走る。
かけがえがなかった。味方だった。俺だけの、と思っていたこともあった。
 
だが俺はかなしみそこねたのだ。
 
どんなに走っても逃げきれない。贖われない。
 
どんどんどんどん忘れてしまう。どんなに走っても追いつかない、この手からこぼれおちてゆく、大切だと思っていたはずのもの。つかんだものはぼろぼろと燃え落ちる。
 
それなのにどんどんどんどん襲ってくる、どんなに走っても逃げきれない、奔流のように全身にかぶさってくる、望まない記憶の嵐。目のくらむような痛み、鈍色の朝のがらんどう。
 
父が、姉が、周りの人間が何を言っているのかもう全然わからなかった。既に文法が狂っていた。感情ってもんがないの、となじられた。仕方がない。それを表現する文法を俺はもたなかったのだ。
 
日々しずかに降り積もり、ある日あふれるようにして無理解は臨界点に達する。
 
犬が死んだ。
 
そして俺は家を飛び出した。
 
もっと早くそうするべきだったのだ。
 
薄汚い部屋を借り、その日暮らしを始めてから何年たったろう。あの日から俺の中の日々は更新されない。
 
 *** *** ***
 
繰り返されるその日々のいつのことだったか。
その夜、俺はキリンを買ってきた。
 
どうしてキリンなんか手に入れようと思ったのかわからない。
 
夜の街を酔ってふらふら歩いていた。いつものように泥酔していた。もうどこの街だったかもおぼえちゃいない。そうだ、朝には記憶は頭から抜け落ちていた。…ただ脳裡におぼろな映像が焼き込まれている。裏通りに一つ場違いな灯りを煌々と灯した小さなキリン・ショップ。その前に俺は佇み、やがてドアを開ける。俺はキリンを買う。それは明るく薄青く透き通った美しいガラスのようなキリンである。
 
前後の脈絡もなく、脳内海馬の迷宮の中にぽかりと開けたキリン・ショップ時空。頭の中のうす青いランプに照らされた範囲だけ開かれた、ぼんやりまるく明るく切り取られた風景。そんな頼りない夢の記憶だ。
 
だが、朝。それは枕元にちんまりと座っていた。
まるで生まれてからずっとそうして一緒にいたように。
 
俺は布団の上で目を開けて、ぼかんとした気持ちでカーテンから漏れる光を眺めた。そして、その光にふちどられたキリンを。
 
何だろうこの奇妙な感覚は。
 
…ああ、そうだ。
久しぶりに悪夢を見なかったんだ。
 
それは手のひらに乗るピンポン玉ほどの大きさで、全身深い闇の色をしていた。夢の記憶の澄んだ空の色とは似ても似つかない…俺の悪夢を囲繞していたあの闇の色だった。
 
夢の中の記憶がよみがえる。夢の中で感じていたその感情をなぞる。キリンになんか興味はなかったのに、そいつを目にした途端俺は夢中になった。透き通るような無垢な空の色の輝き。欲しかった。こいつは俺のキリンだと思った。絶対に手放せない。これは俺の…半身だ。
 
闇の色になっても、闇に朝陽の微粉をまとったキリンはやはり美しかった。しばらく眺めていたが、ヤツはただじいっと半分目を閉じていて、眠っているのか起きているのかもわからない。長いまつげがかぶさってその瞳はよく見えない。
 
おそるおそる話しかけてみた。
 
「…おい、おまえずっとここにいるんだろ。餌とか手入れとかどうするんだ。マニュアルとかあるのか?」
 
キリンは半眼のまま答えた。
 
コクーン・ストラップをあんたの携帯に取りつけといてくれないか。ショップで一緒に買ってきただろう。で、いつでも持ち歩いてくれればそれでいい。いつも持ち歩くんなら鞄でもいいがな。」
 
しわがれた不景気な声だった。
 
「知らんやつだな。キリンは飼い主の感情の動きから外界情報を摂取し、交感し、自らの存在のためのエネルギーを発生させるんだ。一日携帯しておいてくれればいい。我々は物質的に、またエネルギー波動体としても在りうるが今ここではほぼ観念的な存在として在る。」「…それにしてもあんたの夢の波動、ひどい味だな。調律が滅茶苦茶だ。聴覚系への作用調整まで乱れた。ひどい声になっている。」
 
…この声は俺のせいってか。
 
 *** *** *** ***
 
キリンとの生活は悪くなかった。
 
何も変わっちゃいないはずなんだけど、一日が終わってキリンを部屋で取り出すときなんだか少しほっとする。あいつは何もかもわかった風でスカして座ってるだけなんだがね。誰かが自分の何もかもわかってて、その上でただシレっとして一緒にいる。それだけのことだった。それだけで俺はばかのように楽になれた。…ほんとうにそれだけで。
 
「だいぶん過剰な波動を吸い取ってるからな。」はあ、さよで。
 
悪夢を見ていないはずはないんだが、朝、その名残の痛みが少し淡くなったようだった。
 
「だから波動を…」わかったわかった、どうでもいいさそんなの。
 
やっぱりキリンは相変わらずずっとあの悪夢を請け負ったかのような深い闇の色だった。そして皮肉な口を利く。いつも半眼で不遜で不景気なつらがまえをしている。
 
それが瞳をきちんと開くことなど滅多にない。だがたまにまっすぐに視線を合わせてきたときには、俺はその度はっと胸を突かれたような気持ちになる。…明るい緑。どこか胸の奥の深い深いところがきいんと痛くなるような、そんな輝かしい五月の新緑の色なのだ。記憶の中の風景のような。そして全身には微弱な金の光のもやをまとっている。最初に見たとき朝陽をまとっていた、あのときのように。もやはキリンの身体の深い闇をほのかな輝きに透かすようにして優しく包みこみ、それを不思議に穢れのない透き通ったものに見せていた。
 
…まあキリンだからな。
(だけどそれにしても、あの五月のまばゆい朝のような、抜けるように明るい青い空の色は一体どこへいったんだろう。 )
 
 *** *** *** ***
 
「何しやがる!」
「あんたが望んだんだ。」
俺はあんなもの…いや、もしかして望んだのかもしれない。
 
…そうだ、多分望んだのは俺だ。
 
 *** *** *** ***
 
ある金曜の夜だった。
初夏の宵。いい風が吹いていた。俺はTVを消して窓を開け放ち、缶麦酒を開けた。
 
日々、大してなにも変わっちゃない。が、職場の人間からとの会話が少し増えた。家出した後の俺しか知らない人たちだ。
 
ぎごちなく、少しだけではあるが顔の表面で笑顔らしきものをつくれるようになった。思ったほど向こう側は俺のことを恐れたり軽蔑したりしているわけではないのかもしれない。
 
キリンのことを相談したりしてみたんだ。皆争うようにして教えてくれた。「よかったですよ、前からずっとお勧めしたいと思ってたんです。」「何も傷を持ってない人間なんていないですしね。」なんて言ってな。
 
初めてあたりに目を開いたような気持ちになった。何だかほんのりと嬉しかった。
最近、金曜の夜はそれなりに優しい開放感がある。皆がそれをもっていることを俺が知ったから。
 
キリンはいつものお気に入りの場所、食卓の上のカトラリ用籐籠に収まっていた。
 
「なあ、…オフィスのSさんが言ってたキリンの夢見っておまえはどうなんだ。」
「どうとはなんだ。」
 
このやろう。
コイツはわかっていてこういう言い方をするやつだ。
 
「だからさ…。ソノ、いろいろ見せてくれるっていうか。」
「水を汲んできてくれ。窓際に。大きめの丼みたいなものでいい。」
 
キリンの指示通り、大きな丼に水を汲み、窓際に運んだ。
カーテンを開けると、月明かりが窓のシルエットに四角く切り抜かれて床にほとりと落ちた。おおきな手巾のようだなとオレは思った。
 
「ハンケチが落ちましたよお嬢さん…」
その瞬間、何故こんなばからしい言葉を呟いたのかわからない。月あかりの手巾。記憶のうずみの中になにかが閃いた。優しい誰かの姿。
 
床においた水面にもゆらゆらとそのつきあかりが映る。
そして移る…
 
えっ?
 
ひっくりかえっている。
俺は水面を見下ろしていたはずなのに気が付くと月を見上げていた。
 
「…おい。」
「心配するな。現象を解釈するフィールドが必要だったから月光と水の分子構造を使った。あんたの意識をそこに仮想コピーしてみただけだ。」
 
確かに見下ろしている自分の視界もどこかに感じていた。不思議な感触だ。夢の中で行動する自分を上から眺めていたり自在に視点が動いたり、全体を把握していたり焦点のあった視界が異様に狭く拡大されていたり、それらすべてが同時に知覚できる。…神の視線とはこういうものなのかもしれない、と、ちらと思った。多元複合視点。或いは複合主体、…或いは既に崩壊したアイデンティティ
 
世界の網目が見えた。ネットワークをかたちづくり信号を送り関係しあい鏡のように互いを映しあう、たくさんの夢が浮かんでいた。さまざまの感情に明滅していた。あらゆる形をとりあらゆる色彩のヴァリエーションをもった世界の模型、夢のかたち。(キリン・ネットワークはインドラの網だ、とキリンはささやいた。)淡い優しい光を放つもの、深い藍にそまったもの、虹色に輝くもの、冷たいもの、白熱したもの、そして瀝青のようなねっとりした陰鬱な闇に覆われたもの…ああ、あれは俺の夢だ。
 
どろどろとした気配を漂わせた深い闇の夢はひとつではなかった。似たような夢に憑かれたやつが大勢いるんだろう。
 
だが闇の夢の珠のその内側の禍々しさは、つながったネットワークの他の光をほのかにうつした虹色のもやをうっすりと映しており、それぞれがさまざまの色彩を含有していた、どれも同じ闇でありながらどれもが個であり微細な光を孕んでいた。
 
キリン・ネットワーク。世界は網目で構成されており、そこに果てはなかった。永遠に続く認識のみがある。認識されないものは存在しないのだ。
 
空腹を感じた。
身体の感覚はないのに空腹感だけが忽然と存在していた。
 
俺はこのさびしい空腹のために泣き始めた。おんおんとおらぶように泣き続けた。赤ん坊のように泣いていた。不思議とは思わなかった。
 
「お食べなさい。」
 
声がした。キリンの声ではない。俺のキリンのものではない声。
 
「お食べなさい。闇は、すべての始まり。わたしはすべての存在の母なのです。」
 
俺の夢の凝った奇妙な像が浮かんでいた。あれを食べろというのか。
 
 *** *** *** ***
 
言われるままにそれを食った。空腹だったからだ。
それは、昔の、そして新たな、俺。

闇をかみ砕く。こめかみから火花が散るような、不快感。…痛み?
(…いや、それはいっそ清々しい快感であったのかもしれない。)
 
火花はぐるぐる回転し、俺の頭はくらくらと回転する。吐き気がする。闇は俺の内に広がる。外側に俺は広がる。引き裂かれるのか収斂するのか、そのどちらでもある。
 
少しずつずれ、齟齬をきたしてきたたくさんの文法の相対性が地平の異なる闇の次元で出会う。そこで法は見えなくなった。だが確かに存在していた。ちがうかたちで。キリンの言葉で、網目の言葉、世界の言葉で。
 
新しい目が切り裂かれる痛みと共にひらかれる。
 
理解した。
 
悪夢の連鎖は俺そのものである。夢魔
己を食ったのだ、俺の存在は崩壊した。どすぐろいものが俺の存在の底の蓋をこじあけて闇のマグマのようにあたりいちめんに吹き上がった。
 
あたりは闇だった。ありとあらゆる理不尽と悪意と憎悪と不寛容と蒙昧、想像力の欠如。
 
長い長い時間。
 
だったような気がする。一瞬だったのかもしれない。
 
目をつぶり思い出し続けていた。
 
ずっと気づかなかったことを。闇の中の色を。がらんどうの色を。いつもただ寂しかった。胸の奥のがらんどう。だから食いつぶし続けた。決して埋まらないがらんどう。
 
何か取り返しがつかないことがある。いつの間にか俺の足元はずれていた。
 
最初はこうじゃなかった。どんどん取り返しがつかなくなる。どうしてだかわからない。いろんな人から言われてきた。よくそんなに自分勝手に甘えられるわね、そんなに人を傷つけてばかりでよく平気ねって。
 
何も好きで人を傷つけてきたたわけじゃない。文法を知らなかったんだ。そしてだけどその文法は絶対なんかじゃない。なぜひとびとはそれを信じていられるのだろう。
 
ただ確かなのは、すべて食いつぶした、失くしてしまったというこの確信だけだ。
そして残ったのはがらんどうのままのがらんどう。がらんどう人間。悪夢だけを生み出し続ける一個の夢魔。毎夜追いかけてくるなにか。俺自身の成り果てたもの。
 
長い時間のあと、井戸の底になにか一粒の豆のように光るものが見えた。
 
 *** *** *** ***
 
井戸の底、身に覚えない誰かの理不尽な不幸は、苦痛は、恐怖は、罪は、苦く重く苦しく、…そしてその奥の、井戸の底に沈んだ最後の一点は、その光は。
 
哀しみであった。
 
からっぽになったパンドラの箱に最後にただひとつ残されたもの。それは希望などではなかった。ただ、誰かの、(…俺の?)何かを悼む、哀しみ。
 
哀しみは、全身を痛みで覆う。あまやかな痛み。…ああ、心がしびれとろけるように甘く、優しい。
 
絶望と虚無、闇をやわらかなしずくでみたすもの。昏いものへの頭の芯がしびれるような衝動の快楽とは全く反対の痛み、心の内側からしみだしてきて全身がやわらかく浸されてゆく。
 
光ではなく、それは寧ろ闇の仲間、けれど優しい闇、涙に似たやわらかな痛みであった。
 
ほんの少しあきらめに似た感情。
 
 *** *** *** ***
 
ひどい気分で一瞬反射的にキリンを責めたが、そうだ、確かにこれを望んだのは俺自身だった。
 
哀しみは拭われない。希望は、この哀しみの先にある。
俺は新たな何かと共に、また目覚める。
 
 *** *** *** ***
 
俺はその日曜を静かな明るい公園で過ごし、買い物をし、夜には街はずれの小さな食堂でひとりつましい食事をするだろう。そして月曜日、目覚ましと朝日とともに起き、コーヒーを沸かしてパンをかじり、職場に向かう。今度同僚に誘われたら断らず、一緒に酒を飲んでみよう、映画好きのR君の話を聞いてみよう、キリンのことや、本の話をしてみよう。
 
俺のキリンはいつも深い闇を祈りのような微弱な金色のオーラに包んでいる。
そして明るい五月の新緑をいつでもその内側に秘めている。
 
絶対に手放さない。皮肉屋で不景気な声のキリン。俺の文法、うつくしい、俺の、半身。