何度も観てると余裕ができてて、SNSであれこれ雑談しながらみんなで観てる感覚があったりして、これが楽しい。最近はツイッターでも、ネット上にこういう共時的な特別の「場」が形成されたような祝祭的盛り上がりがなくなってきて寂しいけど。
で、こういうのがあったころ、何年か前にツイッター上で友人とあれこれ言い合いながら観てた記録があったので思い出して参考に残しておくことにする。
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(当時宮崎駿と原発関係発言の云々が取りざたされたんじゃないかな。それと絡めて考えるとどうなるのか、と、突っ込まれたような。で、その物語のなかでのエボシ一派をどういうふうに位置付けるか?というテーマでつっこまれた。)
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え?う~ん、そうだなあ、ぼんやり大雑把なイメージで乱暴に言ってみるとだな、まず
A・自然の側、もののけ側がある。
そして、
B・権力欲に基づいた社会システムある、
とまず二項。
生命の根源の喜びや尊厳を忘れた、社会的富や権力への利己的、盲目的欲望が歪んだ形で肥大したそのシステムは、「自然の力」のバランス、存在、尊厳を損ない、一方的に搾取する、という構造を作り出す。
A・ゲタの赤鼻氏、手段を選ばない、何もかも壊しても構わない、天地の何もかもを得たいという目の前の権力への衝動の快楽に身を任せる男性原理の象徴のような彼。(それはほとんど盲目的な衝動、保身、権力、富)
そして、第三項が、
C・エボシ一派。
なのではないか。これは、その社会システムの中で発生した、抑圧された弱者の存在というスタンス。(タタラの村が、女性主体であるところはが象徴的。)貧しさ、生物としての尊厳を損なわれる蔑視。彼らが、「現実」の日々の暮らしのために、自然を搾取する必要悪を請け負う「正義」。手を汚し毒に穢れるのは彼らだ。
だから、原発を巡るイメージでいうと、AとCがまったく異なる原因ながらも(Aは根源的に悪(というか目の前のシステムによる利益のみに焦点を合わせた純粋な衝動と破滅を隠し持つ原理)、Cは人間主体で考えたときは一種の正義ともいえる。)原発推進を支持する。それに、徹底的な原発反対派としての、B・もののけ側、サン、がいる。
とあてはめてみると、またセリフや展開のひとつひとつが、いろんな示唆に見えてきておもしろいんではないかと。
そして、闇雲にもののけ側が正義というわけでもない。AとCの共存をめざし、よりよい未来を求める人間の苦悩の果て、理想のかたちをとったのがアシタカだ。Bの反動的発生としてのCを、同じくBの対極にあるAとの共闘を目指すものとして位置づけようとする彼の構想。人間を守るために自ら荒ぶる神の呪いを背負い、その許しと浄化を求めてさまよい、たたかう。
アシタカは、ラスト、ナマの自然としての女性、サンを愛しながらCに戻る。このラストの示す願いのかたちがメッセージであると、とりあえず言えるのではないかと。
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すべてのひととそのおかれた立場には必然がある。原罪という意味を含め。
Bを含め「悪」といえるものは、本当はないのかもしれない。
Bを含め「悪」といえるものは、本当はないのかもしれない。
(もちろんここでの原発っていうのはひとつの喩えではある。)
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追記。
ふと思ったんだけど、ラストのサンとアシタカのありかた、春樹の「1Q84」のふかえりと天吾のありかたに重なるのではないか。
ふかえりは「向こう側」の巫女、パシヴァ「受け入れるもの」としての女性であった。彼女はあまりにも向こう側に近いため、言葉を持たず、その存在のままでは人間界に理解されることができない。
天吾は「向こう側」を「知覚するもの」レシヴァであり、彼はふかえりを翻訳、媒介することによって「向こう側」と「人間界」を繋ぐメディアとなる物語を編むものとして存在する。
…これは、たった今思いついたメモ。