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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

のうなしとのうたりん

雑記

「のうなし」よりも「のーたりん」の方がより劣っているイメージがある。

のーたりん。一生懸命でもどっかでどうしてもネジが一本抜けてる、とか、或いは漫画なヴィジュアルでいうと、目が上下左右に自由自在にふにゃふにゃ乱れてて、何言ってもふにゃふにゃ笑ってるひとなイメージ。

「無し」より「足りない」方が数量的にはマシなはずなのに。と、子供の頃から私は不思議に思っていた。

もちろん脳無しではなく能無し、ブレインではなくアビリティの脳違いってことだったんだけど。(だってさ、とりあえずひらがなで言っちゃえばおんなじ「のう」やん!)

無能、能無しは、その場においての有用性、「つかえねえ、スキル不足、クズ」の罵り。脳みそはちゃんとしてる。他の場面ではアタマのよい人である可能性を残す。そしてこれは、基本、単なる語義である。


が、脳足りんは意味的には純粋に機能障害である。知能が足りない。考える力がない。言ってしまえば明らかに理不尽な嘘である。やはりこっちのがあらゆる場面で辛くなる絶望的に究極の悪口なのではないか。(無能ではなく無脳、となるとこれはもうただの無脳症という病例である。)

 

…だけど、どうしてか「無能」「能無し」よりも、「脳足りん」の方が(カタカナよりひらがなや漢字表記がなんだか好きなんだな。)愛情や親しみが含まれてるような気がする。

「無能」。その場の論理における合理的論理的な有用性において無益である、という、感情を含まない定義としてざっくりと機能的な漢語で表現する。この「無能」は、鋭い。鋭すぎる。というか、なんというか、ひたすら突き放している。ただ語義通りを突き放して述べる。…巧妙に軽侮と悪意と罵りのニュアンスをのっけながら。

一種、冷酷である。

対して、「脳足りん」は少しやわらかい。意味はひどいんだけど、あんまりにも恣意的であるがゆえに、かえって可笑しみがあって柔らかな笑い、愛情の隙間を感じるケースが多い。不条理であることを知りながら敢えて発する言葉には、傲慢さがない。近しいものへの、それゆえの戯れ。見捨てるニュアンスを持たない仲間ウチの感覚。或いは、共犯者の感覚。己を高みにおいて上から視線で決めつけるのではない、己もまた理不尽な罵り方で同じ地表に、ただ単に感情に走っていること、泥をかぶってることをどこかで自覚した感情のためのコトバ。

必ずしもそういうケースばっかりなわけじゃなけど、和語はやわらかく、どこかにこんな愛情の隙間を残す。もっとみんな使えばいいのに。

まあね、あとね、ただ如何に使い古されているか、単純にその言葉の新鮮さ、という要素もある。単純に、よく使われる言葉は陳腐になる。使うときあんまり考えない傾向が出てくるからだ。

そういう手垢のついた言葉、上滑る意味だけ、悪意を示すだけが狙いの考えなしな言葉に触れると魂が減る気がする。そのエスプリの欠如は既に害悪だ。

脳足りんってあんまりみんな使わないからね、ただ単にそういうことでもあるってことよ。

新鮮な言葉を使おうとするとき、人はその言葉になんらかの個人的な気負いと責任のようなものを負う。

そういう、自覚と工夫と独自性のあるアートな罵詈雑言はそれはそれである種の魅力がある。(ということもある。)

だけど、だから、罵り方のパターンがお仕着せの十把一絡げ、工夫の見られない貧しいものである場合。(あんまり知らないけどちょっとのぞいたときの2ちゃん的な世界のイメージ)鼻持ちならない裁きの傲慢さに満ちた上から目線な言葉。己の言葉に責任を持つ気のない独自性に欠けた言葉でいっぱいなところの場合。

そういう言葉は、却ってそれを発した人間の感情や思想の深みの方が殺されてしまう…気がするんだ。言葉は言霊、発したものを逆支配するからね。

特にあまり丁寧に推敲されることもない、使い捨てな話し言葉に近いくせに書き言葉として残ってしまう、クレバーな鋭さだけに特化したネット用語って危険だと思うんだな。「基地外」とかそういうの。


こないだ書いた記事「悪口雑言エキスパート」の付録だな、これは。