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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

負け組ロケンロー、それから透谷

雑記

人間それぞれツボというのはあるものだ。問答無用に否応なくまずストーンと胸を射抜かれてしまう。理屈はその後だ。

ストーンとハマってしまう。
それは、人間にでも風景にでも文章にでも、そして音楽にでも。まずは完敗である。ただ単に、心が一緒に泣いてしまう、揺さぶられてしまう。

まず、「好きです。あなたがいると私は幸せです。」…というところから始まる。

で、音楽なんである。ロケンロー。

自分がヒロトやヤナちゃんにこんなにもツボってしまうのはだな、彼らのインフェリオリティ・コンプレックスへの共振によるものではないかと思っているんだな。いわゆる負け組コンプレックス。

負け組である、理不尽である、不当である、己はダメである、誰からも相手にされない…というようなどん底な気持ちになったとき、それがどのように処理され昇華されどのような形で表現されるか。これが人間性であり個性であり芸術である。そしてそれは一種知への指標でもある。

 

「はみ出し者でかまわない劣等生で十分だ♪」と力強く謳いあげるヒロト、「井戸の底まで堕ちればきっとどんな人にも優しくなれるよ♪」、とうたうヤナちゃん。

闇、絶望、悲しみや寂しさを抱え込んだ先にある希望や優しさ、明るさ、力強さ、ロケンロー。

闇を抱いているからこそもう怖いものはない。どのような権力の物語にも既に惑わされない知性が確立される。

*** *** *** 

オレは大学で近代文学を専攻したんだが、このあたりでの文学史をさまざまな切り口で辿った面白い授業があった。ひとつが「負け犬の系譜」的文学史である。北村透谷を中心に扱ったものだったが、大変興味深かった。

(大学時代は授業サボりまくってて、どうやって卒業しようか土壇場でパニックをおこして駆けずり回ったレヴェルの堕落学生だったんだが、好きな先生の好きな授業だけは異様に熱心に参加し、異様に熱心にレポートや答案を作成していた。絶対にAを取ると決めていたんである。)

透谷は政治運動に参加しようとして挫折し、文学に転向した。このパターンは当時結構ポピュラーだったらしい。文学と政治は当時特に直結したものだったらしい。

で、「牢獄の記」だかなんだかそういうタイトルで、政治犯が牢獄から手記をしたためた、という設定の作品がある。

で、負け犬となって、社会、外界とのアクセスを閉ざされたとき、「我がふさがれた目は内側に開かれたり」とかなんとかいう記述がなされている。

…前述した政治→挫折→文学のパターンの構造がおそろしくクリアに示された卓越した一文である。

「内側に開かれた目」とはすなわち「己とは何か」、という文学の核であり、また外界のくびきからのがれた「その外側(超ー外部)」としての内部、深奥、ミクロからマクロへの反転を示す言葉である。すべてを、すべての欲望や煩悩のくびきから逃れた外側からの透徹したまなざしで眺めることができるようになる。それはあるいは透谷独特のイメージではあるが、「宇宙への意識」として発展描写されるものであったのだ。

 

…いやね、つまり負け犬→文学→最強の知としてのロケンローっていいたいわけなのですが。ロケンローはすべてのくびきを可視化し自覚することによってそれを激しいエネルギーで肯定することによって昇華しようとする、透谷的なものをまっすぐに、あるいは逆説的にも孕んだ動的なゲイジツである。


このへんもちっとまとまりつけていつか書かねば
。どうもメモ段階だらけですびばせん。