酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

好きな言葉

「諸悪の根源」という言葉が好きである。「あはれな」とか「いとしい」とか「いたましい」とかも好きである。

なんでかな、好きな言葉ってあるんだな。皆それぞれがそれぞれに思い入れのある好きな言葉を持っている。

好きな本や好きな言葉はそのままそのひとの為人を語る。

無自覚な口癖であったり意識的な座右の銘であったり逆にことさらに避け滅多に口にしないほどに大切にするものであったりとか、位置づけはそれぞれさまざまだけど。

意図的に使う言葉に関しては、それは自分の中で好きであると定義づけをしてあっても実はただのごわごわしたココロのヨロイ的な矜持であったり己のキャラクタ設定誇示のための外部むけ宣伝文句とか己の存在に対して違和を持つでもあったりすることもある。つまり己に対し己の中の何かを隠蔽し何かを守り何かから逃げる行為のための言葉であったりするということだ。ヨロイ、武器、戦略的ツールとしての言葉。

だから自分の好きな言葉こだわる言葉がどうして好きなのかこだわるのかその理由を分析するのはおもしろい。思考パターンを自覚することになるからね。まずは人のこと云々より自分のことよ。他人のことも他人事に突き放すんでなく己と切り離せない同じ穴のムジナであること感じてから論じられるようにね。

(みんなそういう風に考えるようにすりゃ世の中もっと過ごしやすくなると思うんだがねオレ。)(過ごしやすすぎてでれでれでなしくずしで人類発展もしなくなるかもしれないがね。)(それでかまわんと思うんだがね。)(川上弘美新刊読んでてしみじみそう思たのよオレ。)

でまあともかく、好きな言葉。

それがあればきっとかなりツライことになっても生きていける、そんな言葉はきっとある。たとえその言葉が心の中で力を失っているときでもその形骸を呪文のように呟くのだ。たとえそのときそれがなんの効力も持っていないとしても。

(「オマエが好きさ。オイラそれしか言えない…気持ちがブルーな時オマエの名を呟く程度さ、それでどうなるわけでもない♪」RCサクセション

失われているように感じられているときもそれは実は決して失われることはない。心がひととき見失ってしまっているだけ。生き延びればまた再び見出すことができる。

 

私は大学時代四季派の詩人たちに結構ハマったんだが、(三好達治がえらく好き。)立原道造、建築家らしい有名なソネット形式のスタイルで構築された浪漫様式美世界より(新古今和歌集の影響が大きいんではないかとか言われている。)、詩集「さふらん」、彼の初期の言葉の手触りを確かめるような幼いほどに素朴な短いものがとても好きだ。

 

忘れてゐた

忘れてゐた
いろいろな単語
ホウレン草だのポンポンだの
思ひ出すと楽しくなる

 

言葉の素朴な楽しさ美しさを、意味為す世界の発見の鮮やかさを。

言葉がそれらを手に取ったときの感動が、好きな言葉が生まれた瞬間のその世界との驚異と喜びに満ちた感応、(ヘレン・ケラーの「ウオーター」だ。)心のダイナミクスの記憶が刻まれている限り、どうにかなる、一度得られたものは決して失われない。

普段私たちはそれを忘れている。その意味の上つらをするすると通り過ぎてしまっている。

あんまり日々の刺激や閉塞感に疲れてしまったときはふかぶかとその意味の源泉をもとめて沈潜し思い出さなくちゃいけない、んじゃないかと思うんだ。ダイブ。今自分が飲み込まれているその日常現実としているシステムを相対化する「外側」へ。

少し自由になる。

かもしれない。

 

…好きな言葉の、そのわけを。思惟する、確かめる。
好きな言葉があるってことは、好きな自分がいるってことだから。