読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

愛と食べ物

フェイスブックのコメントで「食べものネタが多いね。」と指摘された。
 
そうかなあ。
 
…そうかもなあ。もしかして種田山頭火並に脳内エンゲル係数高いかもしれない。食べるもののことばっかり考えてるかもしれない。今夜とりあえず食べるものがある、ああ安心だ、っていうような毎日ぎりぎりの感じ。(今夜飲む麦酒への思いの方が強いような気もするが。)
 
どうしてかなあ。
 
なんかの説で、愛と食べ物への欲望のかたちの類似っていうの聞いたことがある。拒食、過食に関する記事で。
他者からの愛情をうまく摂取することのできない者は、己の心の中の愛への渇望を満たすことができず、それが食欲をうまくコントロールすることができないという、構造的に病理の類似した形の拒食或いは過食に陥る、という説。
 
要するに、心にとっての食べ物が愛である、という考え方である。
 
満たされた瞬間の幸福感、その快楽と充足。
 
食べなければ死んでしまう、必要としている、欲望している、けれど嫌いなものは食べられない、不味いものはだめ、大量に押し付けられてもだめ、自分にとっておいしいものだけたっぷり必要な時必要な分だけ食べたい。(そうしなければ死んでしまう、不幸になる、壊れてしまう。)
 
愛を拒否することと食べ物を拒否することの関係性。過剰に愛されたがる、欲望することとコントロールがきかず快楽をひたすら消費し続ける過食との関係性。それは片方の欠如による片方の過剰であったり双方の過剰或いは欠如として両極のかたちをとって顕れ得る。
 
なるほど、実際の症例のことはよくわからないが説として面白い。
 
これを展開してゆくと、食べもの一般に対する態度と愛という物語に対する態度の類似をその人の性格から心理テストのゲームみたいに分析してみることもできる。意外と面白い。あながちくだらないゲームに過ぎないと言い切ることもできないと思う。何故なら、欲望の対象への態度という大枠はその人物のひととなりの大枠を示す行動指標となっているからだ。
 
例えば食べることに対し、社会的な意味を見出すか(高価なご馳走、虚栄心を満足させる高級料亭での食事を価値とするか、B級グルメの美学か、飲食店でのトータルなコストパフォーマンスを評価する美学か。寧ろ己に与える滋養が満たされる感覚、喜びのみを純粋に価値としているのか。その価値観の振幅、揺らぎの構造を、そのまま人間観、また異性の対する価値観にもあてはめ見出すことができる。
 
例えば己の愛の対象、異性に求めるものが友達に自慢できる「スペック」であるのか純粋に己の魂を喜びで満たすものであるのか。美人で連れ歩くときの虚栄の喜びが満たされることがメインか、或いは二人だけでいるとき純粋にピュアな喜びを交感できる得られるものであるかを重視するか。その振幅。
 
…で、さらに、その欲望の原因の根っこのところまで掘り下げてゆくともっとおもしろい。何故愛や食べ物が必要なのか、愛や食べ物は主体の存在にとってなんなのか?
 
身体的にいえばもちろん基本的な生存欲求、食欲睡眠欲性欲の三大欲のひとつ。個の生存を守り種の生存を守る。
 
で、これを精神の側面としてあてはめて考えてみることもできる、と。
 
アイデンティティの存在を守るため。
そしてだが存在を守る、とは一体どのようなことなのか。
 
結局行きつくところは、主体と客体、対象物、或いは主体と世界との関係性の問題である。
 
そしてここで身体と精神を二分割して類似パターンをなす存在としてとらえてみると、見えてくるものがある。
 
身体を構成している要素は、原料は、食べ物である。呼吸と食による燃焼、化学反応によって生命のエネルギー稼働装置は維持される。身体は、細胞は、食べたものによって稼働し再構成され続けているんである。やくざなものを食っていれば如何に優秀な細胞として生まれ有能な加工工場としての遺伝子を保有していようと、その部品は劣悪な原料によって汚染され、徐々にやくざな身体へと劣化してゆくのは避けられない。脳細胞然り。
 
食うことは世界との交換である。己の枠組みに侵入してくるもの。摂取と排泄のシステム、食と呼吸、化学反応。細胞は絶えず外界と入れ替わり続けエネルギー変換し続けなければ死んでしまう。いうなれば「現象」し続けなければ死んでしまうのだ。個は個を外部から浸潤され続けなければ個を保てないという少々逆説的な構図。アレだな、 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、というような。
 
これを精神のフィールドにあてはめて考えてみると、その「交換」による化学反応はより「交感」による化学反応、のような意味合い色強く帯びてくる。そこで食物として精神が摂取するものは例えば五感が感情に働きかけるもの。芸術として感知されるもの。音楽、絵画、演劇、文学(或いは物語)。食物摂取により感動エネルギー変換しつづけることによって存在し続ける「現象し続ける」精神。欲も夢も希望も感動もなくなればそこには精神の死があるのみだ。
 
食物として悪しきものを摂取すれば精神はそれを己の一部とする。精神は染まる、穢れる。だがそれは必ずしも避けるべき事態というわけではない。閉ざされたひとつの倫理の中の無菌室で生きるわけにはいかない。また悪しきものとは定義それ自体問い直しつづけられるべきものであるから。
 
従って原料を如何に処理するかという精神側の消化プロセス装置の問題になる。そしてそのプロセスのスタイルこそがその人の存在、個性、レーゾンデートルとでもいうべきものである。多分。
 
愛も食も、世界との交流、交換、交感による関係性によってのみその存在、生存が成り立ちつづけているという「存在の本質」をとらえる、その媒体の象徴でありうるものなのだ。
 
ここで思い出されるのはやはり賢治「春と修羅」、あの有名な序章の一節だ。
(そして「農民芸術概論 」。人生がそのまままるごと芸術(ミメーシス的な)の舞台であると読み換えようとする発想。)
 
わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)
 
明滅する存在のイメージ「因果(有機)交流電燈」。
孤立した固定された「物体、かたち」としてではなく、相互の関係性によってのみ「現象」 している存在。電燈(モノ)はうしなわれるがそのひかり(現象)はたもたれる。流れる水の絶えざる無常の姿、その細胞入れ替わりのイメージにも似る。それは物体(モノ)としてではなくコトとしての存在である。それの本質はまさに交感しつづける「複合(エネルギー)体」なのだ。
 
まっすぐで素直な世界とのかかわりかた、食べ方、愛し方愛され方、喜びの感じ方をいつどこで人は忘れてしまうのだろう。或いは学習し損ねてしまうのだろう。失ってしまった楽園のことを神話はいつも語り続けている。