酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

嫌悪と矜持

人が何かを嫌悪するのって、自分の枠取りを守るためなのかなというような気がする。

それは自他を分かつため、アイデンティティを確立し守るため、といってもいいんだけど、なんだろう。嫌悪。同族嫌悪、同属嫌悪、近親憎悪。すべての嫌悪の構造はここに帰着するのではないかと。

自分のかたちはそこから離れることによってはじめて存在できるものとなる、ということなのだ。峻別されて、差異があって初めて存在できる自己同一性。浸潤されては困るのだ。…ということで、守りたいと思うために嫌悪する。己のありたいかたち生きたいスタイル、すなわち存在そのもののスタイルを穢すもの。それはただ在るだけで危険なのだ。己を脅かすもの。存在をユルく認めてしまうと害するもの蹂躙するもの浸潤することになってしまうものである。…ということで排除したものを嫌悪する、という大枠の構造。

それは自分の中の「それ」を他者として締め出し排除する(或いは隠蔽する)ことによって生きる指標を得る、アイデンティティを確立し守るため、なんだけど、なんだ、そういうよりは、矜持のため、というような構造が定義としては感覚にしっくりくる。(同じことを逆方向から言ってるだけなんだけど)

他者と己を区別しその攻撃から己の枠組みを守る。自分が自分の認めるべき自分でなくなることを防ぐ。

 

己の存在の、いうなればひとつの自尊のかたちの確たる認識の喪失は死の恐怖と一である。すなわち、そこで堕落とは己の喪失、死を意味する。その恐怖から己を守るための、嫌悪。

…賤しいもの汚いもの恐ろしいもの。それへの嫌悪のことである。

そこから己を高くまもりたいと思う矜持は、むしろ不確かな指標に必死でしがみつく姿を想起させる。それは感情的な恐怖に根差すものにほかならない、というような、寧ろ攻撃性をも孕んだ嫌悪というものの由来を考えている。

いやだるい土曜の朝なもんで。