酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

未来のない幸福

幸せのことをよく考える。
 
そぼ降る雨、みずほ台から国分寺へ帰る、バイク。
川越街道から、志木街道、府中街道
 
いくつもの街を越えていく。景色は流れる。
大きな川を越えてゆく。その度世界の境界線を越えてゆく気がする。己が不可逆の取り返しのつかない時空の流れの中にあることを痛感する。
 
だがそれと同時に、己の感じた歴史のすべては決して失われないものでもあることをも。
 
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いつも同じ場所、同じ信号待ちで、同じ、不思議なデジャヴにおそわれる。
心がふわりと広がるような感触に、毎回新鮮に私は驚く。
 
一体、何だろう、と自分を探る。
…これは、終末感と郷愁が奇妙に混じり合ったような不可思議な感覚なのだ。過去に囲繞された未来。未知の恐怖に満ちた未来を閉ざすことによって既知の過去の方向(ミクロ)へと意識が無限に広がってゆく、一種の安心感。現実の日常を拒否する逃避のために過去に夢見た未来を奉じてみる。現実に壊されることのない絶対の永遠の未来。
 
何故そんな時空の構造を思い浮かべるのか。
灰色の雨混じりの道路と空の風景の、あの切り取られた光景、あのスポットが思い出させるもの。
 
あれが通じているものは、学生時代過ごしたトルコなのか、それとも、夏休み両親の下で過ごしたアイルランドの記憶の中なのか。意識がそこにとんでゆく道筋のその理由は。世界の果て、という言葉がうかぶ。
 
同じ色彩、という訳ではない。
(いや、やはりそれはどこか共通した光の色。匂いなのだ。胸の中の。)
 
どうして、かなしいような、世界の果てのような、幸福を感じるのだろう。
過去につながることによって、何故なにか解放に似た感覚を得るのか。
時空の広がりを感じ得るのか。
 
両親が老いてゆくという寂しみからも今の私の悪夢のような日常からも逃れた、ただあたたかい記憶にすがりつくようなひとときの麻薬トリップのような無軌道な寂しい幸福。
 
それは幸福というよりは、快楽、或いは、恍惚である。
その先に、色彩も躍動も未来も可能性も、何もない、世界の果て、過去の方向。
 
それ自体が、意味なく、ただそれ以上がないということに、安心する感覚であるという気がする。安心、安寧。過去、誰もそれを壊すことはできない。
もう、それ以上、どこにも戻りたくもない、行きたくもない。
 
未来などもう要らない。
 
あらゆる世界のくびきから逃れた、あらゆる可能性を秘めながら、それ自体、意味のない虚空。ただ、若い日に己が無限の可能性を持っていた、道の途上であったという意味。それは、メディア上に、宙ぶらりんであるということの意味である。かつて夢見た未来を抱きかかえたまま過去の化石のように滅びてゆくような幻想に酔う退廃だ。
 
ただしかし確かにそれは至上の価値を持つ一瞬の永遠である。(ものすごく皮肉でもあるがそれでも、豊穣、といってもいいと私は思っている。)
 
ぐるぐると思考を空転させながら私の残りの半身は、青信号で日常現実に戻ってゆく。
 
けれど、一旦得たもの、この感覚は、決してなくならない。
その「一瞬の永遠」の中に、解放された私の一部は望みどおり、永遠にそこにとどまり、私を呼ぶ。
 
 
私の残りが、いつでも、そこに戻れるように。
 
そうしてその度にきっと私は生まれ変わっているのだ。
 
だから人は、動くのだろう。この死と再生のための非日常を求めるのだろう。そのための儀式、旅を求めるのだろう。
 
夢を見る、自由の可能性を求めて動く。もがく。
誰にも踊らされない。自分だけの物語を編むための風景を生み出すための、それはダンスだ。自ら踊る阿呆のダンス。
 
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もともとさ、オレさ、方向音痴だったからさ。
いつからか、東西南北すら把握できないんだ。今がいつでここがどこなのかすぐわからなくなる。
 
きっと意識がすぐに逃げちゃうんだろな。今の現実を論理的に把握、構築する力もない哀れな者。
 
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思い出ばかりが、リアルである。