どういうことだ。
幸福感で泣きそうだ。これはどういうことなんだろう。
泣きそうなのは哀しくて切ないからなのだが、それが同時にものすごい陶酔と至福なのだ。ここでいう哀しみとは原罪に似ているものだ。そこに限りなく近い。…俗にいう嬉し泣きとか全然理解できないと思ってたけどこういうことなのか。感極まるという感覚は。
わからない。きっとそれは美ということと芸術ということに繋がっている。非常に個的にして普遍的な。
そして考える。「言語にとって美とは何か」。(吉本隆明のこの本読んだことないけどタイトルのインパクトがものすごく気になっている。)
理屈じゃないというべきことであってもこのことについて私は論理をもって考えたい。
五月の晴れた朝のこの風景のことだ。
毎朝見えるこの森が五月に輝いている。薫風にさまざまの緑がきらきら笑うようなさんざめきと、朝陽に眩く光る向こう側の道のその先のことだ。この光景の中ではいつもいつも、いつもの最寄り駅に向かうところではない、あの道は違うところへ繋がっているのだと私のこころは考え出す。
きっとそれはあの陰鬱な朔太郎がひそやかに謳ったうつくしい憧れの光の国、その五月の貴公子の舞台、立原道造がいつも夢見ていた日曜日の風景。(四季派の詩人たちが好きなようだなおれ。)ひとときの、詩人たちの夢の場所に繋がっている。個的にして普遍であるもの、死後還る場所がそういうものであったら、とキリスト教的なイメージをふくらましてみたりする。故郷、ホーム、ノスタルジアやドメスティックと対極にあるはずだったあの巨きな明るい天上世界がそれらとひとつであるところ。すべて今まで夢見た人生がそのままに肯定される場所。幸福すぎて泣くしかない。
哀しみが哀しみのままに至福と同じものである場所。至福が哀しみとひとつのものである場所。個的にして普遍。
シンプルな二項対立→止揚→別次元の構造である。その矛盾を止揚するマジックの行われるブラックボックスが詩の現場であり美と芸術なのだ。(そしておそらく宗教的法悦。システムとしての感情からの解脱、外部からのまなざしの取得、解放。)
イデアを志向するもの、それは固定化された概念としては存在しない。それは常にそのテクストから立ち上げられつづける個的な読者の読書行為の現場、そのダイナミクスの中にのみ存在する。具体的なよすがをもつ詩人たちの夢見た世界は、その詩世界は、テクストとして抽象に投げ上げられたときにその場所を得る可能性へと開かれる。可能性としての無限の読者存在へと開かれるのだ。
その一連の構造は、祈りのかたちにとても似ている。
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「涙と笑い」のところで、私は涙はシステムであると断じた。アイデンティティや魂の深奥ではない表層の物語からの条件反射的刷り込み学習からくるものであると。論理的で合理的な涙。
…だとすれば、論理を越えたこの理不尽な感情、この絶対の涙は、物語を媒介しない、それとは対極にある、アイデンティティと魂の深奥、そしてをその枠組みを越え反転したマクロコスモスとしてのイデアにつながった超越時空に属するものである。
すなわち、制度としての物語と小説とは対極に位置する芸術と詩の領域に属するものである。
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…とにかくお天気人間なもんだから、その日のお天気で人生観がころころ変わっちゃうんである。
この五月よ、どうか長くここにあれ。