酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

書くことは

書くことは生きることだ。

井辻朱美さんってSF的な独特の短歌や訳書で有名な人だけど、私は彼女のオリジナルの小説、なんというかまあいわゆるファンタジーとかの領域なんだけど、その独特の世界の見え方が好きだ。神話や民俗、ファンタジーの系譜の豊富な読書経験、研究知識を網羅し消化したうえでのオリジナリティ、豊かな世界感覚、言語感覚。

ある作品の中で、主人公の少女に残されたおばあちゃんの遺言という設定なんだが、ひどく印象に残っている一節がある。日記を書け、とおばあちゃんは彼女は言い残す。書き残さないと、その日一日は「なかったこと」になってしまう、というのだ。(確か「幽霊屋敷のコトン」。かわいらしい挿絵のついた少女向けのYAノベル。)

言葉にしておかないと「なかったこと」になってしまうという発想。言語、ロゴス=世界、という類の世界の存在の在り方を定義する意識である。

己が書いたようにその日の出来事は反芻され解釈され、すなわちそのように「実在」することになる。逆に言えば、己の感覚感情論理のフィルターを通して初めてできごとはできごととなり、世界は己のものとなる。(この文脈によれば己は創造主だ。)そしてそれは誰かの物語にまきこまれないための自己防衛のための物語構築でもある。…平たく言えば書いたもん勝ちなんである。

その日一日の存在は、その日を生きてきた価値は、それを書き記すところにはじめてその存在を保証される。

 

…だから私は書くのだ、と私は思う。
あったこと、感じたこと、考えたこと。楽しかったことも辛かったことも。この日を私が確かに生きて存在した。このことを確かめたい、失いたくない、証明したい、残したい。なかったことになんかしたくない。

ほんのひときれの消息。生きていたことの証明。

なにかの価値観を選択することを意味するような大層なレーゾンデートルなんざ求めちゃいない。ただ生きたこと存在したことその事実そのもの、それだけがまるごとの自分の大切。

このコンピュータの向こう側の無限の闇に向かい塵芥のような些末な意識を、小さな言葉をただひたすら投げつづける。虚無に対抗するためだけのためにつたない言葉を吐き出し続ける。どのような形でもいい。不定形のこの曖昧なもどかしさ、不完全な形に、出口を、存在を与えるために。

わたしはいまここにこのようにしてある、と。

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書くことは生きることだ。

失われる今日を、感じたことを感じた物語を。アルコールの海の揺らめきをたゆたいながら、ただ浮かび上がってくるものを書き留める。酔生夢死の人生の中の、せめてものあがきなのだ。私を存在させてくれたもの幸福にしてくれたものへの感謝を。

嘘でもほんとでもいい(本当の嘘なんかない)感じたこと考えたこと言葉になったこと。

 

流れる言葉の渦巻く世界の中を泳いでいる。己の中を吹き抜けるような言葉の中でおぼれながら泣けたらいい、そうして、笑えたら、もっといい。