酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

中山式快癒器

中山式快癒器である。

東京駅周辺のご立派な高層ビルディングにご立派な広告がドーンと掲げられているのには驚いたが、このロングセラー商品、ばかにできないスグレモノである。

肩腰痛む人は試すべきであると私は考える。なにしろ「快癒」である。
電気をつかうこともなくコードを使うわずらわしさもなく薬物を使用することもない。珠玉の簡便さ、自力手動治癒手法。痛みのポイントにびしっとキク。

なにしろ「快癒」である。霊験あらたかなこのネーミング、素晴らしい。見ただけであらゆる病が癒えてしまいそうではないか。快癒礼賛。

中国四千年の智慧(違うか。)ツボ押し器である。

…で、思った。ツボとはなんぞや。経絡とはなんぞや。

よくわからない。西洋医学的な合理科学精神で東洋医学を解明しようとするとき、その肝心の接点のところは、そもそもが永遠に相容れられないところにあるということに思い至る。

大体人体はそれ自体が世界の一部であるからして、世界のミステリーの根幹のところをもれなくすべて孕んでいるものなのだ。東洋医学的な学問体系はその思想に根差している。そしてそれは永遠に解明なんかされないんだろう。発見発展はするけど。

科学文明やら論理と云われるものが明かそうとする果てない宇宙の謎、という構図である。

…我こそは世界の謎そのものなり。
一体自分自身の身体のことも意識のことも、実際人はどれだけわかっているというのだろう。

世界内部に含まれながら、すなわち自身が謎でありながら主体としてその世界を客体とすること、全貌を把握認知することなんかできるわけがなかろう。それは主体でありながら客体でいることだ。自分の尾っぽを食らってゆく蛇のようなものだ。

限定されたゾーンのその限りでの限りない進歩、という不可思議なかたちでの進歩が科学の進歩の可能性である。永遠に膨らみ続ける宇宙の果てをひたすらおっかけていく軌跡こそがそれだけがその価値である。

ニュートンが、「僕は小さな少年で、広大な真理の海を前にした海岸で小さな貝殻拾って喜んでるだけなんだ。」とか言ったという、その感じ。

 

…ということで中山式快癒器に救われるとき、私は己自身の身体の組成について考えざるを得ないのだ。そのミステリー。(うへえキク~そこだあ~、などとひとりゴリゴリ唸りつつ。)

ここを押すと身体の別の個所のここに効く、ここに来る、とかそういうのって確かにある。凝り固まったものをほぐし滞っていた気血水のなんらかがきちんと正しく流れてゆく快さの感覚。目をつぶり我が身体をもってその内部での現象をその感覚を、「目に見えない己自身の身体のイメージ」として観る。

経絡。それはもちろん西洋医学的にも説明のつくところではあるんだろうけど、それは少なくとも現時点では恐ろしく説明されてないレヴェルだし、大体その体系的な知のところ、根っこを無視してかかってる間は結局ダメなんじゃないかと思う。(大雑把にいって「気」は神経系統、「血」は血液で「水」はその他の水分、主としてリンパ液の流れのことをいうらしいが。)

各時代の各地域のあらゆる文明文化においてそこに属するそれぞれの医学は身体というものについて、いや心身というものについて、或いは生命、或いは存在、或いは個体というものについて体系的にはどのような見解をもってきたのか。

近代以前、おそらくほとんどすべての文化において医学は別に特に他の分野から独立分離することなく、思想や哲学体系の一形態、その医学的分野における一現象として存在していたはずである。そこで実利的な治療行為は、現場体験がその大いなる理念に沿う形で磨きあげられまとめあげられ体系化された知のシステムを構築し、そこから再び再生産されてゆくスタイルを取ったメソッドである。

それがトータルな形をとったひとつの文明の中に存在した医療のかたちだ。そして人体の組成、そのイメージは、その文明固有の認識に沿ったその成員による共通認識の中でのみ存在する現実、真実のかたちとしてある。

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けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史 あるいは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません

宮澤賢治春と修羅・序より」))

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例えば、インドのアーユルヴェーダ、中国の陰陽。
すべての人類に共通に認識される目に見える物質としての人体の向こう側に、インド人だけがヴァータ(風、運動エネルギー)、ピッタ(熱、火、変換エネルギー)、カパ(土・粘液または痰、結合エネルギー)の三要素の組み合わせを観る。そしてそこに中国人は水、木、火、土、金の五大元素の陰と陽の関わりを観る。

カスタネダによるとメキシコ・シャーマニズムなんかでは人間は「卵型をした輝く繭」の姿として認識されるそうな。それがひび割れができると病、そこから避けて繭が壊れてしまうと死。)

 …それぞれの共通認識の中ではそのどれもが確固たる真実だ。

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それらの文明の内部では、自然、宇宙全体をとらえる世界観や哲学も、生活、医療行為もひとつの論理体系として一体である。すべての現象は共通の論理で説明される派生形のヴァリエーションなのだ。従って、目に見える現象と目に見えないレヴェルの現象をそれはそのひとつの論理に貫かれたトータルなものとしてとらえようとする。世界を存在たらしめている、通奏低音として世界を流れている理(ことわり)、ロゴスとよぶべきもの。

形而下としての身体を心的な要素を含めた全体性から切り離して始まった近代西洋医学とはそのスタート地点が違う。(おそらくそれは、それまでのあまりにも不合理で不透明な宗教やらなにやらの長年のしがらみからくる腐敗、歪みを食らっていた医療行為の停滞、不都合、矛盾のよどみを母体として胚胎され生み出された革命分子的な発生原因を持つものなんであろう。キラキラの科学文明新生児、そこに連なる合理の医学、その時のそれ自体はほんに素晴らしく正しい革命なのだ。たくさんの命がそのおかげで救われた。)

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だが西欧近代科学による医学、身体を物質としてのみ扱うその合理精神が切り落としてきたものが今隠しようもなく現象としてどろどろと噴出してきつつある。

そうだ、隠してきた。この医学は、例えば心的ストレスによる細胞破損を、その原因となるところをブラックボックスにぶちこみ、現象として現れた枝葉の部分のみを対症療法で治癒することしかしてこなかった。

現代社会に特徴的な病はそこからはみ出した部分に特化したものが多い。今の私たちの医療現場で大きな問題となっている国民病的なものといえば、とにかく何もかも、ほとんどすべての原因はストレスと生活習慣、と片付けられてしまっているほどの状況なのではないか。免疫力が精神的なストレスによって低下することが実験による数値として証明される等の事実は既につきつけられている。

切り落としてきたものからの逆襲である。目に見えない心的なるものと生活スタイルという人生というトータルを見据えた見地からくるかつての医学ならばカヴァーしていたはずの領域。

そしてまた、治療のための医学ではなく研究のための医学、マッドサイエンティストたちの跋扈する最先端の分野に目を転じてみれば、これまたやはり取り落としてきた「思想」の部分、倫理の問題が大きくクローズアップされてきている。例えば遺伝子コントロール、脳内支配、神の領域。

今必要とされている医学は再び医学の分野を限らないトータルなかたちで見直したものということなんだろうと思う。終末医療、心のケア、アレルギー。どれも単一の専門分野のみに特化した医者だけの手に負える問題ではない。

再び分野を超えてすべてを統括するトータルな思想が必要とされている。そしてそれは「今・ここ」に適した明確な意志によって組み上げられた知による思想でなければならない。あらたな人体のイメージ。それは既存の知の枠組みからも権力からも宗教からも解放され、しかしそこから新たに獲得されたものである知に根差したものでなくてはならない。

イメージは自由でなくてはならない。倫理の相対性に対して敏感で寛容さをもったものでなくてはならない。西洋近代科学が手を結んだ経済至上主義や情報のバケモノに食われてしまわないためには。

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認識主体としての己そのものその思想の基盤となっている物語、その原理の正体をメタ認知するかたちでの多層構造を持った知が必要なんだと思う。己の認識を限っているもの、己の認識を成り立たせている原理そのものを自覚すること。

世界のさまざまの論理がごったまぜになっているごったまぜグローバル現代のいまここで、おそらくそれはどの論理を選ぶかというのではなく、どの知のどこを融合させてゆくかという探求になるのではないか。その意志と意識、その自己認識の向こう側に未来はある。

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で、見えもしないもののことを考えて、結局私は自分の身体の状態を把握することひとつできずに混乱している。

何しろ痛いだの寂しいだのあちこち支障が多すぎる。私の心身の組成はきっとどこか決定的なところが間違っているのだ。

なんでかなあ。確か小学校に入学したときはもっと皆同じだと思ってたんだけどなあ。