酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

京都と東京と

京都に行った。
 
季節は春。ソメイヨシノも枝垂桜もそろそろ終わり。はらはらと雪のように舞い落ちる桜色と萌え出した新緑に淡く彩られたうつくしいパステル風情の時候であった。
 
もともと京都には縁がない。遥か昔、中学の修学旅行で名所をおざなりに流した記憶があるばかりだ。で、アウェーであるが故に憧れの異郷である。古都京都、ディスカバリー・ジャパン、心は異邦人。
 
観光ガイドどおり、期待どおりの街並みの様相、歴史の教科書で暗記させられる必須項目名所旧跡文化物の壮麗さ美麗さも予備知識の写真通りだ。知識と概念がリアルとして目の前に立ち現れているという種類の感動。それは、浮遊していた妄想に近い概念(予備知識、想像していたイメージ)を調整して眼前の現実風景にあてはめ融合させてゆく作業のような、そして自分もまたその非日常的な概念としての物語に入り込んでゆくような一種不思議な感覚を伴っている。獲得の喜びと感動と幻滅とを混ぜ合わせたような。(現実は己の物語へと取り込まれ、己の暴走した物語は現実によって刈り込まれる。)
 
…まあ大体奇妙な話ではある。己のアイデンティティのベースとなるべきナショナリティを、後天的な学習システムで画一的に刷り込まねばならぬというのも。いやもちろん国家という物語の中に組み込まれるべきパーツとしての国民を量産することは、国家がその理想を夢を追うためには当然仕組まれるべきリーズナブルなシステムではあるんだけど。
 
民族文化とは制度としての大規模な家族物語なのだ。国家は国という家。オマエはココに属したものである、と、成員として認められる、ということ。この立派な国の歴史を、宝を観よ、オマエはこのおおいなるものに属した一員である、その誇りと喜びをもて、と。
 
眼前の現実の街の風景に入り込みながらその概念を己の血肉とする、そんな誇りと喜びの、その幻想の物語をもてあそぶ。己のルーツとされる国の光を観る、そのようなものとしての、「観光」。
 
 *** *** ***
 
午後遅く、八坂神社前で知人と待ち合わせた。
蕎麦屋湯葉をアテにほろほろと酔い、ほろほろと暮れてゆく祇園の町をそぞろ歩く。
 
京都祇園の観光の中心地、白川の橋の上で立ち止まる。
はろばろと開けた川沿いの街、夕暮れに染まってゆくうつくしい風景を眺めながら、彼は京の都のその都としての壮大な歴史と風格を、東京には太刀打ちできない古都の重厚の誇りとして語り、私は東京駅周辺の、あの近現代の文明開化以降の日本を刻みこんだ風景のことを語った。近代以降の建築技術の粋を集めてきたそのそびえ立つビルディング、その最先端と国の力と文明、未来への意志を刻み込んだ屹立を、その気概の美学を残らず刻みこんだ風景の持つ矜持の情趣を。
 
例えば、京都にKITTEはできない。この、近代の西洋文明を受け入れてきた歴史の浪漫を刻み込んだ静かな博物館、ミュージアムと明治からの文化の誇りと、近代的な光と最新デザインの洗練を溶け合わせた商業施設は東京のもの。この種類のアカデミズムは、博物学のファンタジーは京都にはない。 (KITTEのミュージアムはこちらを参照
 
近代以降の西洋近代文明を、その理念ごと敢然と受け入れたのが東京だ。囂々と音を立て、ともすれば己の固有を食いつくそうとする激しいエネルギーをもったその異国の、世界を唯一神の物語で覆いつくし食いつくそうとする暴力的な力とセットになった未来の知へのその意志を敢えて受け入れ飲み下し、逆に己の文化の中に取り込み組み込み吸収消化しようとした東京。その文化の変容が記されたような、この類の科学技術のみるノスタルジックな夢が例えばKITTEのミュージアムの在り方である。
 
…古都は、異文化を拒否することによって古来の伝統文化の純潔を、その美の洗練と誇りを、風景を、さながら天然記念物のように大切に保護し護ってきた。日常生活の利便から乖離してゆこうとしてゆく文化をも日常生活の中のどこかで息づくものとして意識の下層に重ねながら、その頑なな誇りと固有性の精神の根幹を護った。
 
彼は、その柔らかく自然と溶け合ってなお壮麗な我が民族の文化の歴史の調和の美しさを、自国の固有性への誇りを讃頌し、私は東京の、生馬の目を抜くその今を生きるダイナミクス、その貪欲な変容への意欲の過程で形成されてきたクロニクルを映し出す、青空に屹立するバベルの塔、都市幻想の風景を己の属するものとして愛してみせたのだ。
 
京都は私にとって憧れの異国情緒であり、己と無縁なのに己の国そのものである。この不思議なアンビヴァレンツ。ただそうである(お前はここに属している。)と定義された学習のおかげでそこの成員であるアイデンティティを与えられ誇りと喜びを与えられている、というその不思議さ。私は半ばそのうちにありながら半ば外国人観光客とまったく同義のまなざしをもって外側からその日本を眺める複眼を抱いている。
 
彼は生粋の東京人だが今京都に起居している。
彼は故郷の東京をそのままに愛し誇り、そして京都を尊敬し尊重する。
 
それはとても正しいかたちであるような気もする。ふたつの日本。(双方を等価等質に我がものとしようとしているのだ。欲張りっちゃ欲張りだ。)
 
我々は、東京が、その地方、下町的なるものとしての固有の江戸っ子文化と上京してきた人々が作り上げてきた首都としての文化の層を実はかなりの懸隔をもって併存させ、混じりあわない層のまま重ね同居させていることについて語る。そんな東京の文化の構造、そのフォルムのことを語り、そこにぽつりと合意する。京都とは違った形で生きているものについて。
 

橋を渡る。

少しの間黙って歩く。京都の町はそのままあわあわと柔らかく暮れなずむ。きっといつものように千年を灯し続けるようなうつくしい祇園の街の文化の営みを、その街灯りを灯していく。
 
 *** *** ***
 
翌朝、帰京。
ほのじろい朝の光、曖昧なうす曇り。
 
新幹線はいつの間にかするりと出発している。発車のベルってないんだね。あっけなく音もなく、するり。
 
さよなら、京都。
 
橋を渡る。
 
世界を渡る。ふたつを結ぶ。
 
どこからも切り離された新幹線車内の頼りなく自由な心持ちのひととき。ごうごうと鳴る耳鳴りと非日常の、動的ワープ・メディア 空間 。世界を分かち、そして結ぶもの。この先の駅が時空すら越えたタイム・トラベルのその先の、パラレル・ワールドであったとしてもきっと私は驚かない。
 
  *** *** ***
 
東京駅で私は立ち止まる。(ああ、ここから先へは戻りたくない。)
 
私は東京駅が好きだ。リニューアル後のものも好きだ。
ここからどこにでも行ける、そんな交通の要、実はどこにも属さない、空港の匂いにも似た無臭の匂い、空中に投げ出されたようなメディアな心持ちになるところが好きだ。(春樹の多崎つくるが駅に立ち止まり人々の流れを眺めることを愛したように。)
 
KITTEに入り込む。博物館のソファに座り込み、恐竜の骨や鳥の剥製に囲まれた薄暗い学者の部屋をぽかんと眺める。
 
彼らの語る夢と物語を思い、私はゆっくりと私の物語を綴りはじめる。
 
旅の物語はいつも取り込まれた記憶を回想する中に醸成されてゆくものとしてある。