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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「ソラシド」吉田篤弘

時代と、街と、音楽、そして言葉。
 
独特の透明な空気感。
 
この人の作品世界には、言葉遊びのようなスタイリッシュな文体によって醸し出されるあざとさと、どこか高踏派的な空気感が漂っている。そして、行間ににじむほのかな哀愁、小粋なエスプリの快さ、ノスタルジアに彩られた世界の意味ありげでポエティカルな浮遊感を味わうために読むものであり、ブンガクって感じじゃない、大人の遊びゴコロ、バーでたわいなくひとときを楽しむ会話にも似たディレッタンティズムだ、と以前断じたことがある。
 
が、様々な手法の実験的作品を重ねてゆくような氏の作風の変遷に触れ、そしてこの作品に至って、「吉田篤弘、文学!」という当初は思いもよらなかった考えが私の中でいきなりかたちになった、確立された気がした。それは私の中で劇的といってよいくらい新鮮な驚きだった。そして、気づいた瞬間、その萌芽としての系譜が過去作品の中に浮かび上がり、それ以前の作品をもすべて含めて一連の作品群は新たな見地からの評価の可能性を得るものとなる。そのパズルのピースが組み合わさったような世界の読み換え感覚。
 
そして文学的なるものとは私にとって嗜好に関する言説でなく思考に関する論考としての批評に値するものをいう。
 
スタイルへの愛、時代の持つ空気への愛着、風景への思い、言葉遊びへの執着。このような思い入れたちは一体どこから来ているのか。何かの「思い」は、一見どんなに通俗的で浅はかなものとして思えたとしても、突き詰めればそれは己と世界との関わりを模索する根本、すべての知の源泉のところへとたどり着く。すべても道はローマに通ず。
 
サブカル、娯楽、アクション、ラブコメディ、エログロ、なんでもだ。
およそ人間が生み出し嗜好する物語ならどの道も等しく至高のところへとたどり着く可能性を持っている。職業に貴賎がないならば文芸ジャンルにも貴賎はない。もともとは文芸そのものが最も賤なるものと最も聖なるものとしての両極から発生してきた。そのひとつの分野の上澄み部分を純文学、芸術として崇敬の対象とし、沈殿部分をことさらに俗として貶める対象とするのは、権力がその両極の」「外部」としての異形の力を持つ文芸を無力化し無害なものとするために放った支配のための物語戦略なのだ。
 
芸能の系譜と同じだ。原始の時代神々にささげられたものが、文明の進化発展の中で神事の高貴な舞から中世の被差別民である河原者にまで分岐しそして意図的に分断された。両極からこの世の制度を枠どる。その外部から守りそこに繋がるための防壁でありメディアである。恐ろしい異形、未知なる力、畏敬と差別と侮蔑の対象、アンタッチャブル
 
…で、この人のこの作品でのモチーフである。とても興味深いと思ったもの。
 
冒頭で述べたように、いくつものモチーフが絡み合っている。だがとにかく全編を通じて瀰漫しているこのほのかな哀愁、ディレッタンティズム、異界幻想やシニカルな諧謔の混交した作品世界を成立させている要素、それらのすべての共通項はただひとつだ。
 
失われたもの、過去へのノスタルジア
 
だがそのノスタルジアは強い執着と偏愛の対象でありながらも決して「ああ若いころ、あのころ、昔は楽しかった。」という楽しい記憶というのではない。寧ろ陰惨で孤独な放浪と迷い惑い挫折のどす黒くにごって先の見えないさえない日々の思い出である。
「岸に戻りたいのに、戻らない自分にうんざりし、ただただ安息を求めていた。(中略)(おれは救われなかった。)」
 
…が、その卑屈な自虐の感情と同時に、それと結びついたままのジレンマに似たねじれをもちながらも、強い「そのような己」への執着、偏愛と矜持、いわばそのように生きてきたことへ肯定、誇りのようなもの、それ以外にはありえなかったのだという後悔のなさ、…いうなれば「矜持」を語っている。まずい珈琲を飲みつづけ、日銭を稼ぎながらすべてをレコード代に費やして売春宿の上の階の安アパートで毎晩レコードを聴き続けていた、その音楽とその時代の空気。時代のバブルの影の部分に生きてきたものたちの「1986年」がこの作品のキイワードとなっている。
 
そして主人公「おれ」の父親の年若い再婚相手を母とする、腹違いの妹の生まれた年。
 
…作品の構造としては、時代の趨勢に背を向けたまま、己の禁断の恋心(同世代である義理の母への思い)を封じたまま生きてきた過去を清算し、失ったもの、あきらめてきたものを喪失として抱え込んだまま、いかにして己自身がそこから未来を切り開かねばならぬのか、その未来のための封印してきた過去を掘り起こし「現在」につながるものとしてのそれを読み直してゆくスタイルだ。ストーリーの大枠としては、主人公「おれ」は26年前、1986年に小説にしたいという思いから書き続けていた自分のノートを紐解き、そこから読み直される新たな何か(「謎の依頼のあった音楽に関するエッセイを書き綴るため」)を書きいだそうとしている、という流れになる。
 
(ところでこのような骨組みを切り出して見てみれば、村上春樹の長編小説の多くもこれと同じ構造をもっていることに思い当たる。最近の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」もこれとまったく同様のスタイルをとっているものとして読むことができるものだ。過去を掘り起こし清算してゆく推理仕立て、その謎解きによって停滞としての現在を異なる過去に基づいた異なる物語へとして読み換え、そこから新たな未来へ向かおうとする。)
 
で、とにかく吉田篤弘、文体のみならず、プロットの組み立て、作品構造そのものにもあざといほどに仕掛けが多い。虚実をないまぜにして読者をケムにまいてゆく、スタイリッシュにして人を食ったテクストである。
 
がっぷり取り組むならば、複雑に絡み合ったこれら複数のモチーフをひとつひとつ取り上げて解きほぐしながら、ストーリーの流れにのせて統合させてみたいところだ。映画のフラッシュバック手法に似た手法で、回想と現在と夢想とを意図的に混濁させ、それらが多重奏を奏でながら同時進行する作品世界、書き言葉のトリックを駆使した虚実をない混ぜにしてゆく独自のこのストーリー展開手法。
 
…だけどこれはまあやっぱりあんまり大変でとりあえずはやってらんない。ので、ここではとりあえずこの人のテーマで独自性の非常に強いものを大きく二点にまとめてメモ的に挙げておくことにする。
 
まずは、バブルで繁栄する浮かれてきらびやかな社会の当時の風潮の影、裏側に押し込められたもの、はみ出てしまったもの、或いはそこから逃れた自由をもっていたものへの思い。その影(「外側」或いは「隙間」)の部分を駆逐しようとする大きな力へのひそやかな反感。失われたそれらかそけきものたちに対する哀惜だ。
 
そこからはみ出てしまったものの系譜のひとつとしては、記憶喪失者のエピソードが語られている。
恐らくかつてはプロのミュージシャンであったろう路上生活者チンパン。彼は「おれ」が街で見かけるごとに、郵便ポストやらなにやらをコンガに見立てて叩き、意味の通らない歌詞をしわがれた声で朗々と歌っていた。「そのプレイはじつに軽妙にして巧妙」。叩きながら歌いながら自動販売機周辺の小銭を拾い集めながら街をただ歩いていた。「彼くらい自由に街を生きたものはいなかった。」「彼は記憶を喪失するのと引き換えに自由を手に入れた。言い換えるなら、自由を得るためには記憶を手放さなければならなかったのだ。」
 
(我々は一体に何によって自由を奪われているのか。これは己自身による枷についての問題提起でもある。)
 
 
そしてふたつめ、これが非常に興味深いものなんだが。…双子的なるもの、あるいは己の存在の片割れのテーマである。
 
双子のテーマって昔からひっかかっていた。例えば、いしいしんじプラネタリウムの双子」、村上春樹の初期のものに繰り返し出てくる双子の女の子のモチーフ、荻原規子「風神秘抄」で草十郎の世話をする遊郭の双子の女の子、或いは岡田淳「こそあどの森」のさえずるような双子の女の子のキャラクター。それはまた梶井基次郎の「Kの昇天」での己の影法師、ドッペルゲンゲルに通じるテーマでもある。
 
人間には、そういう根源的な感覚ってあるのだ。不思議な陶酔感を伴う己のドッペルゲンゲルの存在を感ずるその感覚。それは、どっちが本当?ホンモノの自分ってなんだろう、という根源的な己の存在への問い。実態、オリジナル、本体であると信じていた己が、或いは影法師かニセモノであるかもしれない、という感覚、アイデンティティの危機。己の拠って立つ大地が、存在認識の土台の崩れてゆくような恐怖。(それはとても素朴な感覚なのだ。ドラえもんにだって自分の影が己にとって代わるような恐怖のアイテムが登場するよね。)
 
これらは、或いは光と影がふたつでひとつのものという命題にも通じてくるような、オリジナルと代替物(あるいは投影される対象)という常に逆転性を孕んだ関係性の持つ意味というテーマである。それを探ってゆくことは、拡張されあるいは投影されあるいは分断された自己、対幻想的なるものと自己との関係性への疑問を孕みながら、己とは何か、そのアイデンティティとは果たして何なのか?という根源の問いに複合的な視点から答えてゆこうとする探求となってくる。
 
ここでは、謎の女性デュオ「ソラシド」の片割れ、天才肌コントラバス奏者「カオル」と「トオル」の双子の関係が作品中のすべてのその代替物とアイデンティティのテーマを抱いたモチーフを表徴するキイ・モチーフになっている。
 
相反するふたつの思いを抱えるということと己の片割れを持つということをアナロジーにとらえ、それぞれの登場人物がそれぞれのダブルバインドの停滞に決着をつけて未来を選んでゆく物語なのだ。
 
「音楽によって時間や空間から逸脱し、当たり前なものに背を向けながら、どこかで安寧をもとめていた。逃げながら留まりたかった。前へ進みながら帰りたかった。そんな右と左を向いた思いをひとつにする術はないものかとずっと探してきた。」おれ。
 
そして、「いま、ここにしかない」音楽の本質を残したい、というレコーディングへのジレンマを抱えたカオル。残したくないが残したい、それは生まれて生きた証。それは消えゆくものを消えゆくものというその本質を愛するがゆえに失いたくないと願うダブルバインドであった。
 
その思いは、幻のただ一枚の試作品、真っ白なジャケットに包まれた誰にも聴かせない「封印されたレコード」として残され、「Don't Disturb,Please」の札を吊るした高円寺の路地裏の異世界じみた小さなバーの中でひそやかに俺の手に託されるものとなる。
 
母理恵によって封印された母自身の愛したレコード、そして亡き父(画家)の絵、そして腹違いの兄「おれ」の封印した「おれ」の捨てた音楽の象徴、「おれ」の分身であったコントラバス、それらすべてあばきだし拾い出し、それを描き出すことによって新しい未来を拓く妹、オー。
 
トオルの死によって、己が己であることを封印し音楽を封印し、トオルになりきる人生を生きることを選んだカオルは、ラストシーンで再びソラと出会い音楽を取り戻そうとする。
 
そして、「おれ」のなかに父の面影を探していた理恵。解かれた封印とともに「おれ」自身と向き合うこととなる。
 
「Don't Disturb,Please」。
 
この言葉は、封印される思いと敢えてそれを破りその痛みの向こう側に未来をもとめようとするダブルバインドのさまざまなかたちを言い表し、繰り返し「おれ」の心に響く。そっとしておくこともあり、敢えて破ることもある。
 
禁断のレコードを妹と二人でそっと聴く。相反する二つを溶け合わせたそのソラシドの音楽、消えゆく懐かしい思い出の街の風景を現代に重ね、おれは痛みとともにその封印を破り、再び痛み哀惜の念と共に封印する。謎はそのようにして解かれ、封じられた心は解放され、ダブルバインドダブルバインドとして保たれたままひとつの停滞は解かれてゆく。未来はその失われた思いを喪失を抱えたそのままに、そこから新たに開かれてゆくのである。
 
 *** ***
 
よりファンタジックで幻想的、大人の洒脱なファンタジーの味わいの強い吉田篤弘の次の作品「電球交換士の憂鬱」においても、そのテーマは構造から言うとほぼ「ソラシド」に一致している。不死と消えゆくものの対比、そして己の分身。
 
この作品では、影武者、ドッペルゲンゲル、ホンモノとニセモノのテーマが繰り返しその象徴となる対象をさまざまに取り替え、変調し重層しながらうたわれており、バー「ボヌール」で、強烈な個性を持つ正体の知れない常連たちの虚々実々の言葉の駆け引きの中、アイデンティティは非常に不確かなものとして揺らいでゆく。切れる電球、消えゆくものを交換しつづける不死身の電球交換士が主人公十文字である。
 
「おれは神崎になりかわって電球を交換し続けてきた。ヤツはヤツで〈十文字ランプ〉になりすまして、自分の電球をつくりつづけた。そういう意味で云えば、おれたちは『似ている』というより二人で一人だった。神崎でも十文字でもない一人の『男』を、おれとヤツの二人で演じつづけてきた。」
永遠と不死身という言葉を繰り返し、決して切れない電球を選ぶ神崎と、消えゆくものを選んでゆく「おれ」。
 
共通した特徴としては、結末に、あまりクリアな解決や結論はない、というところか。ただ、謎が解け、封印がほどかれる。ひとつの停滞がほどかれ、ほのかな希望と未来への意志とともに人生に次のステージが開かれるのだ。
 
「標的は、はっきりしたが、おれの銃弾は依然として、なにひとつ撃ち落とせない。」
 
ダンス・ダンス・ダンス」(村上春樹)だ。
踊り続ける日常、泳ぎ続けなければ死んでしまう鰯なんだよな、人間も。