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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

故阿佐ヶ谷住宅

高校時代憧れだった、思い出のつまったあの阿佐ヶ谷住宅が壊されたことは知っていた。だから今実際どうなっているのか見るのは少し怖かった。

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うわあ…。
やっぱり、分譲マンション。そうだろうなとは思ってたけど。

目の前にした途端、胸の奥に不意に広がる鈍い痛みのような悲しみのような、喪失感。よりどころであったものはかたちあるものはすべて失われる。あの頃当然だったものが失われる日がくるなんて思いもしなかった。

同じように、大切にしていたものはすべて失われる。
やがては必ずこの命も。

時代は新しいものに押しやられてゆく、自分が生きてきた時間は過ぎて失われてゆく、その時の自分を含んでいたその街の風景、自分の生きてきた証、そのまるごとだ。かけがえのない時間そのまるごと。

だけど、確かに喪失と痛みであったんだけど、それは決して虚無や絶望や否定ではなかった。取り戻したいのに取り戻せない強烈な喪失の痛みなのに、だけど、 それは、ただ痛みは、痛みとして存在したのだ。自分は生きてきた、そのかけがえのない時間を生きてきたから、愛してきたから、生まれて生きた価値はあったのだ。喪失の痛みは、愛したものが存在したということを認めることだ。それは、そのよりどころとしての対象が、そのかたちが失われても、否、それが失われて初めて 己の中に決して侵されることのない、失われることのできないものとして永遠に生き続けるのだ。その耐え難いほどの痛みは同時にとろけてしまいそうに甘い優しい絶対の肯定の感覚を孕んだアマルガムである。

それは例えば純粋な生命の透き通るようなピュアな喜びよりもずっとずっと素晴らしいものである。確かだ。すごく不思議なようだけど、ためつすがめつこの考えを眺め渡し、子細に検証したあとの結論である。私は本当にそう思ったのだ。

「涙はかなしさだけでできてるんじゃない」(鈴木慶一

 

…2012年、壊されかかってたけどまだ部分的に残ってたとき訪ねていった記録がここ。昔の風景の片鱗。

夜、高校の友人と喧嘩した後、ここの公園のぶらんこ漕ぎながら仲直りしたり、高校三年のときは、朝から学校さぼって友達と待ち合わせて金木犀の木の下でお弁当、散々語り合ったこともある。将来のことやらなにやらかにやら、高校三年生っていうのはそういう年齢だ。

決して壊されない思い出は心の中にちゃんとある。
変わってしまった風景のその向こう側に自分だけの決してなにものにも侵されない絶対の風景が隠されていることを私は痛みと甘やかな幸福感と共に確認することができる。何もかもは失われるものとして存在するけど、その後ろ側に己だけのかけがえのない事象を、大切なものを、決して失われないものを獲得してゆくことが生まれてきた意味であると思ったりする。