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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

美辞麗句

美辞麗句って書いてて思い出した。

びじれいく。

この言葉は何度も口の中でつぶやいて発音を練習したんである。

何故か。

…耳から入ってくるよりまず書物で字面から覚えた言葉っていうのは結構多いものだ。特に書き言葉、四字熟語とか漢語とかではそっちの方が多いんじゃないか。意味やイメージをそのときコンテクスト含めて字面から脳内に刷り込む。学習する。

難読語とかでその熟語の正式な読み方ができてなかったとかそういうことはままあることなんだけど、頭の中で半ば音韻化しながら文章を読むとき、その最初のインプットを正確に行わない、間違って刷り込んでしまう、ということも誰しも何らかのかたちで体験しているのではないか。

すぐにきちんと調べたり直されたりして傷が浅いうちに修正できるといいんだけど、うっかりするととんでもないオリジナルな発音でおぼえたまま一生を終える、ということだって多いんじゃないかと私はひそかに思っている。

で、美辞麗句。

この字面を眺めた途端まず「びれいじく(美麗辞句)」と入れ替えて音韻化してしまうのが私の脳である。最初にそう刷り込まれてしまうともうダメである。きっと一生、0.1秒のタイムラグを経て「美辞麗句」の発音に危うく着地する脳内回路で生きていくのであろう。

どうして私の脳はそれを入れ替えて刷り込んでしまったのか、いろいろ考えた。

まず、使い慣れた言葉、印象深い、或いは好きな言葉に引きずられる、という要素がある。ここでは「美麗」がそれである。美しい言葉、という大雑把なイメージでつかんでしまえば意味的にそれほど大きな間違いは起こらない。「美麗な辞句」である。

ということで「びれいじく」が創造されるというワケである。

…大学の言語学専門の先生の一般教養科目で、一年間「言い間違いの論理」のようなテーマの講義を受けたことがある。これがなかなか面白かったのだ。すべて人が言葉を言い間違うのにはそれなりの理由がある。その論理を分析分類、系統立ててみせてくれた。音韻によるもの、画像的イメージによるもの、意味的な隣接によるもの、等々。

それら言い間違いの論理を分析研究することは、或いは意味のゆらぎという言語の本質にかかわる部分、特に文学の本質のところを掘り起こすキイともなるのではないかと思うのだ。

コンピュータの不得手なところをその研究はひょっとして補うかもしれない、なんてね。人間だけのもつ無限の発想の飛躍や跳躍(トンデモなさ)、論理の後付けされるような天才の秘密。枕詞の持つ可能性やナンセンス文学、異化作用、といったテクストの「意味の地滑り」を利用した芸術や知性の構造の秘密。それは換言すればテクストの豊饒、芸術性の本質ともいえるものではないか。

ううむ美辞麗句。

(あとね、「一念発起」を「一発念起」と読んでいたこともヒミツである。国文学のゼミ仲間にこれがバレたときものすごい本気の軽蔑と心配の言葉を山ほど浴びせかけられた。恥ずかしかった。

おそらくTVの下品なCMとかの「ファイトォー!いっぱああ~っつ!」みたいのが耳の中にこびりついちゃったんだと思うんだけど。

…でもねえ、そりゃ「一念を発起する」、って正しくてかっこいいけどさ、「ここは一発念を起こしてキメますか自分っ!」…て雰囲気でもいいような気がするんじゃん、ってこっそりちょっとだけ思ったんだよね。